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2014年2月 2日 (日)

マルコによる福音書 12章28~34節 「本当に大切なこと」 

 第一の掟と第二の掟において、それぞれ神への愛と隣人への愛が語られているのですが、これはシェマと呼ばれるユダヤ教の信仰告白からの引用です。イエスはシェマを逆手にとって律法学者の前提している神と隣人の規定を異化しているのです。つまり、ユダヤ人の内側に向かって規定されている神と隣人のイメージを外側に向かって解きほぐすようにして語るのです。
 たとえば、隣人という言葉からユダヤ人が思い浮かべるのは近所の人のことではなく、律法をきちんと守っている枠の中にいる同胞のことです。そして、その枠を支えているのが閉じられた共同体の神ということになります。しかし、イエスはこの概念から自由なのです。あらゆる人に対して臨むのがイエスの神であり、枠を乗り越えつつ隣人になる道を説くのがイエスなのです。閉じられた概念を無化する、相対化する、破壊していくような活動をしていったのです。ユダヤ人というアイデンティティに依って立つ生き方を拒絶していったのです。同じ言葉の土俵に立っているようで、実は言葉が通じていない事態がここにはあります。アイデンティティというものが人間を切り捨てる働きをもっているなら、それを相対化、無化していくことでしか<いのち>のかけがえのなさは取り戻せないと感じていたからに違いありません。
 ローマの支配下でのユダヤ教という信教の自由は結局のところ構造的な悪によって支えられる差別社会にすぎないとの判断があります。この辺りについてはルカによる福音書10:25-37の「善きサマリア人」の話を思い起こしてくだされば分かると思います。強盗に襲われて倒れている人を見て祭司、レビ人は通り過ぎて行ったのですが、サマリア人は手当をして、宿屋に連れて行き介抱し、かかる費用は払う約束をします。このたとえを話した時、律法の専門家に誰が隣人となったかと問いますが、論争相手はサマリア人とは言えないのです。ルカによる福音書10:37「その人を助けた人です。」に書かれているとおりです。
 枠によって<いのち>が排除されるという仕組みが、わたしたちにとっても無縁ではありません。自分が枠の内側にいることを確認することで安心を覚えるという事態が、たとえばヘイトスピーチをする人たちの登場によって露わにされているのが、今日の日本社会なのではないでしょうか?
 本当に大切なこと。「言葉」に安住せず、前提を取り払うことによって現れて来る人間同士の関係性を生身のもととして受け止め、新たに作り出していくところにこそ神を愛し隣人を愛することへの導きがあるのです。

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