マルコによる福音書 12章18~27節 「生きている者の神」
11章から始まる怒涛の六日間。興奮と覚醒を伴いながら激しいせめぎあいが行われています。そこに登場するのはサドカイ派です。彼らは第一次ユダヤ戦争が70年に終結すると歴史から消えていくのですが、当時はまだある程度の勢力があったようです。神殿に帰属する貴族的祭司階級であり、モーセ5書を墨守するのです。ファリサイ派の場合、律法を時代に応じて再解釈することによって民への順守を促し、啓発する活動をしていましたが、サドカイ派は文字通りの順守を求め、またそれが可能な生活が保障されていたのです。保守的な層に属しており、復活や天使を認めていない立場でした。
さて、イエスに対して論争が仕掛けられます。これは「ためにする」議論であり、底意地の悪さに満ちているものです。19節では「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と引用します。これはレビラート婚という、イスラエルの民が血筋を絶やさないための方法として採用されていた結婚の形式です。
このレビラート婚の習慣を前提として復活を巡る論争がなされます。7人の兄弟が子を残さず次々と死んで復活したならば、それぞれの妻となった一人の女の処遇はどうなるのかという問いです。当時の価値観では妻は夫の財産で員数外なのです。サドカイ派の言い分としては、もし復活があったとして、せっかく甦った妻は甦った7人の元夫に公平に分配されるなら、7等分されて引き裂かれて死んでしまうから復活は無意味だろうということを指摘しているのです。
イエスは彼らに思い違いをしていると反論します。25節では「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と。復活の身体というものの具体をイメージすることは神の領域に属するとの判断がイエスにはあります。神に任せておけばいい領域だとの宣言です。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も守られていることに信頼し委ねていくことを以上のことは人には許されてはいないのです。この謙虚さに留まる限りにおいて、わたしたちは神から貸し与えられている<いのち>の尊さ、掛け替えのなさに触れることができるのです。これが「天使のように」との意味です。
さらに、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とあります。イエスの感覚では、アブラハムもイサクもヤコブも今生きているということなのです。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も神の守りに包まれた確かさゆえに安心だという、あらゆる<いのち>への祝福の宣言が論争においてなされているのです。
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