« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

2014年1月

2014年1月26日 (日)

マルコによる福音書 12章18~27節 「生きている者の神」

 11章から始まる怒涛の六日間。興奮と覚醒を伴いながら激しいせめぎあいが行われています。そこに登場するのはサドカイ派です。彼らは第一次ユダヤ戦争が70年に終結すると歴史から消えていくのですが、当時はまだある程度の勢力があったようです。神殿に帰属する貴族的祭司階級であり、モーセ5書を墨守するのです。ファリサイ派の場合、律法を時代に応じて再解釈することによって民への順守を促し、啓発する活動をしていましたが、サドカイ派は文字通りの順守を求め、またそれが可能な生活が保障されていたのです。保守的な層に属しており、復活や天使を認めていない立場でした。
 さて、イエスに対して論争が仕掛けられます。これは「ためにする」議論であり、底意地の悪さに満ちているものです。19節では「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と引用します。これはレビラート婚という、イスラエルの民が血筋を絶やさないための方法として採用されていた結婚の形式です。
 このレビラート婚の習慣を前提として復活を巡る論争がなされます。7人の兄弟が子を残さず次々と死んで復活したならば、それぞれの妻となった一人の女の処遇はどうなるのかという問いです。当時の価値観では妻は夫の財産で員数外なのです。サドカイ派の言い分としては、もし復活があったとして、せっかく甦った妻は甦った7人の元夫に公平に分配されるなら、7等分されて引き裂かれて死んでしまうから復活は無意味だろうということを指摘しているのです。
 イエスは彼らに思い違いをしていると反論します。25節では「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と。復活の身体というものの具体をイメージすることは神の領域に属するとの判断がイエスにはあります。神に任せておけばいい領域だとの宣言です。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も守られていることに信頼し委ねていくことを以上のことは人には許されてはいないのです。この謙虚さに留まる限りにおいて、わたしたちは神から貸し与えられている<いのち>の尊さ、掛け替えのなさに触れることができるのです。これが「天使のように」との意味です。
 さらに、「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とあります。イエスの感覚では、アブラハムもイサクもヤコブも今生きているということなのです。此岸の<いのち>も彼岸の<いのち>も神の守りに包まれた確かさゆえに安心だという、あらゆる<いのち>への祝福の宣言が論争においてなされているのです。

2014年1月19日 (日)

マルコによる福音書 12章1~12節 「神は歴史に介入する」

 イエスの批判する対象はユダヤ教徒の指導者層である祭司長、律法学者、長老たちです。彼らに対して、預言者たちを見殺しにし、軽蔑し、捨ててきたことを非難しているのです。もう預言は止んでいるという理解がありましたので、彼らの立場から見ると、愛する息子であるイエスというのは、何処の馬の骨かわからない様な、怪しげな、取るに足らない人物、すぐにでも抹殺してしまいたい余計者だったのです。ところが、まだイエスには人気がありましたので群衆を恐れて、その場から彼らは立ち去った、となっています。
 大きな物語に対して、小さな物語にこそ神の思いがこもっているという理解です。つまり、世界の中で非常に有名で華々しい出来事を成し遂げた、ということではなくて、シリア・パレスチナの片隅で起こった出来事です。多くの預言者たちが、軽蔑され殴られ、殺されていった、その徹底的としてのイエス・キリストの受難、十字架による処刑も、世界の大きな歴史からすれば、それは片隅で起こった出来事です。世界の中で周縁とみなされるところにおいてこそ、天がある、神の国がある、という理解です。
 主イエス・キリストは、疎外感、見捨てられ感、そんなところで弱りを覚えている人々のところに手を差し伸べ、声をかけてくださって、一人ひとりが自分で立ちあがってイエス・キリストを信じ従っていく決意が与えられているときに自立していったわけです。であるならば、その他の国の人たちが見捨てられ感から尊厳へとたちあがる、そのあり方につながっていく、連帯していく道をわたしたちは同時に求められている、と思います。その独り子、捨てられていった独り子が実は見捨てられることによって、すべての見捨てられている人の尊厳を取り戻し、その人をその人として生かそうとなさっている、それをわたしたちが信じて認めるならば、世界中の抑圧された民とつながっていく可能性があるはずです。そのことは、わたしたちの常識からは外れるので、「 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(12:11)のです。
 わたしたちキリスト者は、この世における常識から自由であって、主かなさったことは不思議に見えるけれども、そこに賭けていくことができるのです。主イエス・キリストの謙遜において、つまり柔和さにおいて、わたしたちは、もう一度新たに生かされていく希望へと導かれているものです。疎外感、見捨てられ感を持っている世界中の人たちと、何とか繋がっていくことができる道ゆき、その生命が神によって尊厳が取り戻されていることを祈り求めながらつながっていく道へと召されているのが、教会のひとつの使命であり、そこにこそ伝道という出来事が歴史に介入する神の側からの働きによって起こされるに違いないと考えているのです。

2014年1月12日 (日)

マルコによる福音書 11章15~19節 「パフォーマーとして」 

 今日の聖書は、一つの躓きかもしれません。イエスの物理的な暴力行為が描かれているからです。しかし、だからこそ、ここで立ち止まって祈りながら、どうしてなのかを注意深く読む必要がありそうです。ここから別の物語を見出すような促しとして理解することはできないものでしょうか。
 イエスがガリラヤで活動し、そしてエルサレムに向かうわけですけれども、ガリラヤで活動する時に穢れた霊に憑かれた人や病気の人を癒しますが、何故癒さなければならないかというと、それが罪の結果であるという風に広まっていたからです。その考えから解きほぐす、その差別には根拠がない、あらゆる人々の<いのち>が神によって祝福されているということを復権していく働きであったわけです。しかし、そうせざるをえなかった、その背後にはユダヤ教の律法主義があって、さらに中心はエルサレムにあるわけです。そして、人々が苦しい生活を強いられ、搾取されている。搾取されているお金はどこに行くのか、それは神殿に集中していくのです。
 なので、イエスは神殿批判を行っていくのです。その中で一つのパフォーマンスを、表現者として、演じて見せたのが今日の聖書です。保守的な考え方からすれば、イエスは穏やかな方なので決して怒ったりなさらず、と思いがちですが、実際には暴れています。何で暴れたのか? 多分、これは大掛かりなものではなかったと思います。本格的に暴れたのであれば、神殿の警備の軍隊に捕まえられて裁判などなされずに弾圧され排除されているはずです。そうはなっていないので、神殿の片隅で起こったことだろうと思います。つまり、ハプニングの一つだったのでしょう。
 ここで神殿というものが一体何であったかということを踏まえておく必要があります。エルサレム神殿はユダヤ人にとって巨大な集金装置として機能していました。献げ物を買うための貨幣が定められており各地の硬貨は両替しなければ使うことができなかったはずです。そのためのレートは桁外れであったでしょう。また、買われた牛や羊、鳥という献げ物も使いまわしていた可能性があります。
 神殿に代表される宗教の収奪の仕組みが確かにあって、ただでさえ楽でない庶民の暮らしを圧迫させることと神があらゆる<いのち>を祝福している出来事はどのような関係にあるのか、という疑問や怒りをもってパフォーマーとしてイエスは演じた。宗教批判者として真実に神に向かうあり方を問う姿には、わたしたちの神に対する姿勢が<まこと>であるのかどうかを自問することへの招きがあるのではないでしょうか。

2014年1月 5日 (日)

マルコによる福音書 10章46~52節 「自立への促し」

 「イエス・キリストの信仰」の問題は「の」の字にあります。信じる人たちの「信仰」がまず第一に問題なのではなくて、イエス・キリストご自身の「信仰」こそが重要なのです。信じる人たちの「信仰」は、イエス・キリストご自身の「信仰」の反射、反映でしかありえない。イエス・キリストの信仰を受け留める受け皿でしかないのです。つまり、自分たちが「信仰」だと考えている余計な持ち物を捨てるというところに立ち返ることによって、イエス・キリストの道に連なる可能性が拓かれてくるということです。
 今日のテキストでバルティマイは、あのイエスという方が来たと聞いて無我夢中で「憐れんでください」と叫びます。今まで被ってきた生涯、人から施しを受け、そしてまた同時に軽蔑を受けてきた。何で自分はこのような境遇に生まれついてしまったのか。様々な呻きが絶えず心の中で暴れ回るようだったのではないでしょうか。それらの思いが叫びとなって溢れ出た。黙っておれという周囲の圧力にひるむことなく。主イエスに呼ばれて行く時、上着を脱ぎ捨て云々とあります。「脱ぎ捨て」と訳されていますが、手に持っている物を捨てるとか放り投げる感じの言葉です。施しのお金が乗っている広げられた上着をそのまま投げ捨てるというイメージが相応しいと思います。目が見えるようになりたいと訴えると、行きなさい、あなたの信仰があなたを救った、とイエスは語ります。これは今まで培ってきた人生を捨て去ることによってリセットないしはリスタートするというバルティマイの態度というものが「信仰」であるという物語です。
 わたしたちも自分たちが培ってきた経験とか知識とか、あるいは財産とか色々なものを蓄積し溜めていく、それが価値あることだとしばしば思うのですが、果たしてそうなのだろうか、頼るべきのは、イエス・キリスト「の」信仰のみ。ただおひとりのイエスという方が呼んでいてくださるということに賭けていく。その後どうなっていくか、道は知らないけれども、はじめの一歩を踏み出していって大丈夫なのだということです。イエスご自身が行きなさい、あなたの信仰があなたを救った、という言葉がまことであるということにおいて絶えず新しい道の可能性があって、安心であるし大丈夫だ、いかなる困難があっても耐えうる力が備えられているのだと。だから、今あるがままで神の祝福に生かされている、そのことを喜ぶ自由がある、そこにこそ「信仰」の可能性があるのです。このようにマルコによる福音書は語るのです。
 イエス・キリストという方は、その人がその人として自立していくようにと絶えず促す、声掛けをする方なのだ、ということです。バルティマイに留まらず、今のこの場にイエス・キリストの言葉が臨んでいるとのですから。

« 2013年12月 | トップページ | 2014年2月 »

無料ブログはココログ