« マルコによる福音書 11章15~19節 「パフォーマーとして」  | トップページ | マルコによる福音書 12章18~27節 「生きている者の神」 »

2014年1月19日 (日)

マルコによる福音書 12章1~12節 「神は歴史に介入する」

 イエスの批判する対象はユダヤ教徒の指導者層である祭司長、律法学者、長老たちです。彼らに対して、預言者たちを見殺しにし、軽蔑し、捨ててきたことを非難しているのです。もう預言は止んでいるという理解がありましたので、彼らの立場から見ると、愛する息子であるイエスというのは、何処の馬の骨かわからない様な、怪しげな、取るに足らない人物、すぐにでも抹殺してしまいたい余計者だったのです。ところが、まだイエスには人気がありましたので群衆を恐れて、その場から彼らは立ち去った、となっています。
 大きな物語に対して、小さな物語にこそ神の思いがこもっているという理解です。つまり、世界の中で非常に有名で華々しい出来事を成し遂げた、ということではなくて、シリア・パレスチナの片隅で起こった出来事です。多くの預言者たちが、軽蔑され殴られ、殺されていった、その徹底的としてのイエス・キリストの受難、十字架による処刑も、世界の大きな歴史からすれば、それは片隅で起こった出来事です。世界の中で周縁とみなされるところにおいてこそ、天がある、神の国がある、という理解です。
 主イエス・キリストは、疎外感、見捨てられ感、そんなところで弱りを覚えている人々のところに手を差し伸べ、声をかけてくださって、一人ひとりが自分で立ちあがってイエス・キリストを信じ従っていく決意が与えられているときに自立していったわけです。であるならば、その他の国の人たちが見捨てられ感から尊厳へとたちあがる、そのあり方につながっていく、連帯していく道をわたしたちは同時に求められている、と思います。その独り子、捨てられていった独り子が実は見捨てられることによって、すべての見捨てられている人の尊厳を取り戻し、その人をその人として生かそうとなさっている、それをわたしたちが信じて認めるならば、世界中の抑圧された民とつながっていく可能性があるはずです。そのことは、わたしたちの常識からは外れるので、「 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。」(12:11)のです。
 わたしたちキリスト者は、この世における常識から自由であって、主かなさったことは不思議に見えるけれども、そこに賭けていくことができるのです。主イエス・キリストの謙遜において、つまり柔和さにおいて、わたしたちは、もう一度新たに生かされていく希望へと導かれているものです。疎外感、見捨てられ感を持っている世界中の人たちと、何とか繋がっていくことができる道ゆき、その生命が神によって尊厳が取り戻されていることを祈り求めながらつながっていく道へと召されているのが、教会のひとつの使命であり、そこにこそ伝道という出来事が歴史に介入する神の側からの働きによって起こされるに違いないと考えているのです。

« マルコによる福音書 11章15~19節 「パフォーマーとして」  | トップページ | マルコによる福音書 12章18~27節 「生きている者の神」 »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 12章1~12節 「神は歴史に介入する」:

« マルコによる福音書 11章15~19節 「パフォーマーとして」  | トップページ | マルコによる福音書 12章18~27節 「生きている者の神」 »

無料ブログはココログ