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2014年1月12日 (日)

マルコによる福音書 11章15~19節 「パフォーマーとして」 

 今日の聖書は、一つの躓きかもしれません。イエスの物理的な暴力行為が描かれているからです。しかし、だからこそ、ここで立ち止まって祈りながら、どうしてなのかを注意深く読む必要がありそうです。ここから別の物語を見出すような促しとして理解することはできないものでしょうか。
 イエスがガリラヤで活動し、そしてエルサレムに向かうわけですけれども、ガリラヤで活動する時に穢れた霊に憑かれた人や病気の人を癒しますが、何故癒さなければならないかというと、それが罪の結果であるという風に広まっていたからです。その考えから解きほぐす、その差別には根拠がない、あらゆる人々の<いのち>が神によって祝福されているということを復権していく働きであったわけです。しかし、そうせざるをえなかった、その背後にはユダヤ教の律法主義があって、さらに中心はエルサレムにあるわけです。そして、人々が苦しい生活を強いられ、搾取されている。搾取されているお金はどこに行くのか、それは神殿に集中していくのです。
 なので、イエスは神殿批判を行っていくのです。その中で一つのパフォーマンスを、表現者として、演じて見せたのが今日の聖書です。保守的な考え方からすれば、イエスは穏やかな方なので決して怒ったりなさらず、と思いがちですが、実際には暴れています。何で暴れたのか? 多分、これは大掛かりなものではなかったと思います。本格的に暴れたのであれば、神殿の警備の軍隊に捕まえられて裁判などなされずに弾圧され排除されているはずです。そうはなっていないので、神殿の片隅で起こったことだろうと思います。つまり、ハプニングの一つだったのでしょう。
 ここで神殿というものが一体何であったかということを踏まえておく必要があります。エルサレム神殿はユダヤ人にとって巨大な集金装置として機能していました。献げ物を買うための貨幣が定められており各地の硬貨は両替しなければ使うことができなかったはずです。そのためのレートは桁外れであったでしょう。また、買われた牛や羊、鳥という献げ物も使いまわしていた可能性があります。
 神殿に代表される宗教の収奪の仕組みが確かにあって、ただでさえ楽でない庶民の暮らしを圧迫させることと神があらゆる<いのち>を祝福している出来事はどのような関係にあるのか、という疑問や怒りをもってパフォーマーとしてイエスは演じた。宗教批判者として真実に神に向かうあり方を問う姿には、わたしたちの神に対する姿勢が<まこと>であるのかどうかを自問することへの招きがあるのではないでしょうか。

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