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2014年1月 5日 (日)

マルコによる福音書 10章46~52節 「自立への促し」

 「イエス・キリストの信仰」の問題は「の」の字にあります。信じる人たちの「信仰」がまず第一に問題なのではなくて、イエス・キリストご自身の「信仰」こそが重要なのです。信じる人たちの「信仰」は、イエス・キリストご自身の「信仰」の反射、反映でしかありえない。イエス・キリストの信仰を受け留める受け皿でしかないのです。つまり、自分たちが「信仰」だと考えている余計な持ち物を捨てるというところに立ち返ることによって、イエス・キリストの道に連なる可能性が拓かれてくるということです。
 今日のテキストでバルティマイは、あのイエスという方が来たと聞いて無我夢中で「憐れんでください」と叫びます。今まで被ってきた生涯、人から施しを受け、そしてまた同時に軽蔑を受けてきた。何で自分はこのような境遇に生まれついてしまったのか。様々な呻きが絶えず心の中で暴れ回るようだったのではないでしょうか。それらの思いが叫びとなって溢れ出た。黙っておれという周囲の圧力にひるむことなく。主イエスに呼ばれて行く時、上着を脱ぎ捨て云々とあります。「脱ぎ捨て」と訳されていますが、手に持っている物を捨てるとか放り投げる感じの言葉です。施しのお金が乗っている広げられた上着をそのまま投げ捨てるというイメージが相応しいと思います。目が見えるようになりたいと訴えると、行きなさい、あなたの信仰があなたを救った、とイエスは語ります。これは今まで培ってきた人生を捨て去ることによってリセットないしはリスタートするというバルティマイの態度というものが「信仰」であるという物語です。
 わたしたちも自分たちが培ってきた経験とか知識とか、あるいは財産とか色々なものを蓄積し溜めていく、それが価値あることだとしばしば思うのですが、果たしてそうなのだろうか、頼るべきのは、イエス・キリスト「の」信仰のみ。ただおひとりのイエスという方が呼んでいてくださるということに賭けていく。その後どうなっていくか、道は知らないけれども、はじめの一歩を踏み出していって大丈夫なのだということです。イエスご自身が行きなさい、あなたの信仰があなたを救った、という言葉がまことであるということにおいて絶えず新しい道の可能性があって、安心であるし大丈夫だ、いかなる困難があっても耐えうる力が備えられているのだと。だから、今あるがままで神の祝福に生かされている、そのことを喜ぶ自由がある、そこにこそ「信仰」の可能性があるのです。このようにマルコによる福音書は語るのです。
 イエス・キリストという方は、その人がその人として自立していくようにと絶えず促す、声掛けをする方なのだ、ということです。バルティマイに留まらず、今のこの場にイエス・キリストの言葉が臨んでいるとのですから。

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