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2013年12月

2013年12月29日 (日)

マタイによる福音書 2章1~12節 「まことの王」

 ユダヤ人の中には様々なメシヤ、救い主、王に対する期待感がありました。大ざっぱに言ってしまえば、ローマの支配からユダヤ民族を解放する救い主、解放者のイメージです。具体的には、誘惑物語で悪魔が提示した事柄を実現するようなイメージです。しかしマタイ福音書はイエスは多くのユダヤ人が期待しているような王ではなくて、別の王のイメージを示すことによって、それまでのユダヤ人の王にはない「まことの王」こそがイエスなのだというのです。
 イエスは王制を無化しつつ支配する王なのです。ユダヤ人の王の理想像の代表はダビデですが、そのダビデ批判を2章後半で語っています。この世の王というものは、ダビデを思い起こせば、結局滅びていくものであるとして、人々の共通して持っている「王」理解を相対化するのです。この世の権力にしがみつきながら王として民を支配する、そんなものは過ぎ去っていく、滅んでいくしかないという現実を覚めた目で厳しく見つめるマタイ福音書の理解がここにはあるのです。
 この世の全ての「王」は、いつか終わりの来る脆弱なものだからです。福音書の示す方向性は、庶民の知恵です。これは、王権を冷静に見詰めながらも笑い飛ばす余裕を与えることによって落ち着いていること、さらにはこの世の波風に対して非陶酔的であることへと導きます。
 アンデルセンの「裸の王様」で、おとなたちが言えない中、見たそのまま「王様は裸だ」と叫ぶ子ども、これがマタイによる福音書2章の物語の示す「まことの王」としてのイエスの姿なのではないでしょうか。誘惑物語を退けること・権力に溺れていく道の拒絶(4:1-11)、謙遜と遜り(11:28-30)、十字架への道行。マタイの理解する「まことの王」のイメージは誕生時において、すでに提示されているのです。期待されるメシヤのイメージを壊すことにおいて「裸だ」と叫んだ。だから、救い主としての王のイメージが裏切られた人たちからは嘲弄の対象になるのです(27:27-31)。
 イエスはこの世の権力を、過ぎ去る、空しいものとしています。謙遜と遜りを貫くことによってこそ「まことの王」と呼ばれる、このイメージは降誕物語から読むと神が共にいるというインマヌエルの理解に繋がります(1:18-25)。山上の説教などの言葉において、神が共にいてくださる現実、これが「まことの王」の姿です。復活の主の言葉からも解ります(28:16-20)。
 いつも共にいてくださる神の言葉において、イエス・キリストは「まことの王」なのです。ですから、わたしたちは、この世で様々な権力を振るい続けている王たちの過ぎゆく姿に惑わされることなく、非陶酔的に堅実に生きていく道へと導かれているのです。

2013年12月22日 (日)

ルカによる福音書 2章8~20節 「飼い葉桶を見よ」

 厳しい旅の中、マリアは男の子を出産し、幼な子は飼い葉桶に寝かされます。そして、この主イエスの誕生が真っ先に知らされた記事が続きます。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(8)。羊の毛は着る物の材料、肉は食用になるのですから、羊飼いというのは尊い職業のはずです。しかし、住む家のある人たちからは「住所不定のいかがわしい人間」と見られていたようです。彼らの言うことの信憑性は薄いのだから、と裁判などの証言者にもなれなかったようです。一般社会から偏見をもって見られ、疎外されていました。その上、羊が獣や強盗などに襲われる危険性とたえず隣り合わせの日々を孤独に過ごしていたのです。ですから、いわば光の世界からはじかれ、暗闇の中で生きることを常とするように強いられていた羊飼いたちが、主の天使が近づき主の栄光が周りを照らしたとき、「彼らは非常に恐れた」(9)というのも無理のないことです。
 天使たちは他の誰でもなく、真っ先にこれらの羊飼いたちのところへ現われた、というのです。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。光を見て、非常に恐れた羊飼いたちは、その直後に喜びに満たされます。疎外と孤独、日々の厳しい生活のことでも不安や心配を山ほど抱え、苦労して生きている、そのような羊飼いの一人一人に向かって、今日、「あなたのために」、救い主がお生まれになったと言ったのです。
 「あなたがたのため」とは、もちろん羊飼いたちだけにとどまらず、民全体のためでもあります。そして、それぞれに不安や心配を抱えている、現代に生きるわたしたちに向かっても「あなたのために」救い主がお生まれになったというのです。
 あなたは決して神から見捨てられてはいない。あなたのために救い主が生まれた。その救い主は、羊飼いたちと同じ地平に生まれて、彼らと同じようにあらゆる苦しみの道を歩む方です。いわば、飼い葉桶から十字架まで、神のへりくだりの道を歩まれた方なのです。
 その道行きを示すかのように神を賛美する大きな歌声が天に響きます。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(14)。神の意思において、見栄えのない姿の幼な子を送ることによって、天の栄光は地の平和となったのです。つまり、この幼な子において、天と地が結ばれた、ということなのです。
 このクリスマス信仰わたしたちは支えられているのです。

2013年12月 8日 (日)

ルカによる福音書 1章26~38節 「神の言葉は事件である」

 マリヤのところに現れた天使の「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)は、神の恵みに包まれてしまっているのだという宣言です。ただでさえ天使からの挨拶に驚いているのに、自分に見の覚えがないことで身ごもって男の子を生むという告知にさ、らに戸惑いが増したことだろうと思います。イエスと名付けよと言われ、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(1:32)と告げられます。
 どうしてそんなことが起こるのか、とマリヤは問います。しかし、あり得ないことが起こるのです。人間の常識とか、あるいは計算できる範囲を越えたことが神の力によって巻き込まれることで起こりうるし、そこに神の思いがあるということです。その可能性に対して自らを開いていくことができるか否かという信仰的決断というものが、クリスマスにおける一つの態度決定ではないでしょうか。
 わたしたちが考えている歴史の中でおよそ起こりうることがないことが、起こる可能性を神は引き起こすのだというのです。マリヤは思いめぐらす中で、まだ見ぬ子どもの<いのち>、そしてその生涯に対して希望を抱きます。天使の言葉によれば「神にできないことは何一つない」(1:37)からです。
 わたしたちの、ものの考え方の筋道を越えていく神の全能の可能性があり、それを信じることができるということです。マリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)と答えます。神から委ねられたメッセージをもってきた天使の言葉には神の思いが込められていますから、「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉によって、自らを引き受けていく、将来がどのようなものであろうと引き受けていく勇気、ないしは希望がそこにはあるということです。
 わたしたちはクリスマスに光を灯し、そこに象徴されるイエス・キリストを迎えます。わたしたちの世界があまりにも暗く、この国の暗さというものは絶望的であると思えます。しかし、光は希望です。マリヤの言葉を、わたしたち自身が自らの言葉として引き受け、同時に「主イエスよ、来てください」と祈り、イエス・キリストの来臨の約束を待つことが赦されているのです。だからこそ、わたしたちはマリヤと声を合わせて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と祈りながら主イエスの降誕の備えとしましょう。イエス・キリストの光を受け、その光を反射させるようにして、この世を旅人として歩む責任性を全うしたいと願うものです。ここに神の言葉が事件となるという出来事が知らされているのです。

2013年12月 1日 (日)

ルカによる福音書 1章5~25節 「近づいてくる」

 神は歴史に介入してきます。教会は、その神の歴史に巻き込まれてしまっていることへの自覚を求めているのが今日の聖書です。
 洗礼者ヨハネが祭司ザカリヤとアロンの系譜に属するエリザベトとの間に生まれるという物語です。ヨハネの誕生の予告とイエスの受胎告知には並行が見られます。もちろん、先駆けとしてのヨハネの位置は保たれながらイエスの優位が描かれてはいるのですが‥‥。①両親の紹介(ザカリヤとエリサベト/マリアとヨセフ)②天使の挨拶(ザカリア/マリア)③反応(ザカリアの不安/マリアの不安)④天使の慰め(「恐れるな」)⑤誕生告知(「ヨハネ」と「イエス」と呼ばれること)⑦子の使命⑧(反論「どうして」)⑧反論の理由(ヨハネの両親は高齢/マリアは男を知らない)⑨天使の答え(誕生は神に由来する)⑩しるし(ザカリヤはものが言えなくなる/エリサベト懐妊)⑪反応(ザカリヤの沈黙/マリヤの「言葉通りに」という信頼)以上、三好 迪から参照。
 いずれも子が与えられるはずがないところに与えられるという設定になっています。
 ザカリヤとエリサベトは「義人」つまり、神から責められる点がなかったというのです。ただ一点、子どもがなかったということ、これは当時では神の祝福から漏れていると判断されていました。旧約の伝統からすれば、子が与えられるはずのないところに与えられるというイメージを連綿としてもっています。この物語は、それらに倣っていると判断できます。つまり、人間の常識では起こりえないことが神の歴史に巻き込まれることで起こってしまうということです。神はそこにいる具体的な一人ひとりを顧み介入し関わっていくということです。神はザカリヤとエリサベトを絶えず見守っておられ、彼らの祈りが民の祈りと合わせられて、民を神に立ち返らせるという使命を帯びた洗礼者ヨハネの誕生の物語があるのです。
 ヨハネの誕生に際してはザカリヤもエリサベトも喜び、神に感謝したことでしょう。しかし、ヨハネの生涯は平穏無事ではなくて、その「義」の追求の故に殺されていくものでした。「エリヤの霊と力で主に先立って行」くものだったのです。イエスの道を備えるためであったことがすでにここで描かれている、十字架を予見させる仕方で首をはねられるのです。
 神の歴史に巻き込まれてしまっている者には、どのような苦難があろうとも神によって守られてしまっているという信仰が備えられていることが今日の聖書の告げるところです。近づいてくるクリスマスの音信イエスとしての登場によって神が人間の歴史に介入した物語から、希望のないこの時代に向かって語られるクリスマスの備えの心構えを共に学びたいと願っています。

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