マタイによる福音書 2章1~12節 「まことの王」
ユダヤ人の中には様々なメシヤ、救い主、王に対する期待感がありました。大ざっぱに言ってしまえば、ローマの支配からユダヤ民族を解放する救い主、解放者のイメージです。具体的には、誘惑物語で悪魔が提示した事柄を実現するようなイメージです。しかしマタイ福音書はイエスは多くのユダヤ人が期待しているような王ではなくて、別の王のイメージを示すことによって、それまでのユダヤ人の王にはない「まことの王」こそがイエスなのだというのです。
イエスは王制を無化しつつ支配する王なのです。ユダヤ人の王の理想像の代表はダビデですが、そのダビデ批判を2章後半で語っています。この世の王というものは、ダビデを思い起こせば、結局滅びていくものであるとして、人々の共通して持っている「王」理解を相対化するのです。この世の権力にしがみつきながら王として民を支配する、そんなものは過ぎ去っていく、滅んでいくしかないという現実を覚めた目で厳しく見つめるマタイ福音書の理解がここにはあるのです。
この世の全ての「王」は、いつか終わりの来る脆弱なものだからです。福音書の示す方向性は、庶民の知恵です。これは、王権を冷静に見詰めながらも笑い飛ばす余裕を与えることによって落ち着いていること、さらにはこの世の波風に対して非陶酔的であることへと導きます。
アンデルセンの「裸の王様」で、おとなたちが言えない中、見たそのまま「王様は裸だ」と叫ぶ子ども、これがマタイによる福音書2章の物語の示す「まことの王」としてのイエスの姿なのではないでしょうか。誘惑物語を退けること・権力に溺れていく道の拒絶(4:1-11)、謙遜と遜り(11:28-30)、十字架への道行。マタイの理解する「まことの王」のイメージは誕生時において、すでに提示されているのです。期待されるメシヤのイメージを壊すことにおいて「裸だ」と叫んだ。だから、救い主としての王のイメージが裏切られた人たちからは嘲弄の対象になるのです(27:27-31)。
イエスはこの世の権力を、過ぎ去る、空しいものとしています。謙遜と遜りを貫くことによってこそ「まことの王」と呼ばれる、このイメージは降誕物語から読むと神が共にいるというインマヌエルの理解に繋がります(1:18-25)。山上の説教などの言葉において、神が共にいてくださる現実、これが「まことの王」の姿です。復活の主の言葉からも解ります(28:16-20)。
いつも共にいてくださる神の言葉において、イエス・キリストは「まことの王」なのです。ですから、わたしたちは、この世で様々な権力を振るい続けている王たちの過ぎゆく姿に惑わされることなく、非陶酔的に堅実に生きていく道へと導かれているのです。
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