ルカによる福音書 1章5~25節 「近づいてくる」
神は歴史に介入してきます。教会は、その神の歴史に巻き込まれてしまっていることへの自覚を求めているのが今日の聖書です。
洗礼者ヨハネが祭司ザカリヤとアロンの系譜に属するエリザベトとの間に生まれるという物語です。ヨハネの誕生の予告とイエスの受胎告知には並行が見られます。もちろん、先駆けとしてのヨハネの位置は保たれながらイエスの優位が描かれてはいるのですが‥‥。①両親の紹介(ザカリヤとエリサベト/マリアとヨセフ)②天使の挨拶(ザカリア/マリア)③反応(ザカリアの不安/マリアの不安)④天使の慰め(「恐れるな」)⑤誕生告知(「ヨハネ」と「イエス」と呼ばれること)⑦子の使命⑧(反論「どうして」)⑧反論の理由(ヨハネの両親は高齢/マリアは男を知らない)⑨天使の答え(誕生は神に由来する)⑩しるし(ザカリヤはものが言えなくなる/エリサベト懐妊)⑪反応(ザカリヤの沈黙/マリヤの「言葉通りに」という信頼)以上、三好 迪から参照。
いずれも子が与えられるはずがないところに与えられるという設定になっています。
ザカリヤとエリサベトは「義人」つまり、神から責められる点がなかったというのです。ただ一点、子どもがなかったということ、これは当時では神の祝福から漏れていると判断されていました。旧約の伝統からすれば、子が与えられるはずのないところに与えられるというイメージを連綿としてもっています。この物語は、それらに倣っていると判断できます。つまり、人間の常識では起こりえないことが神の歴史に巻き込まれることで起こってしまうということです。神はそこにいる具体的な一人ひとりを顧み介入し関わっていくということです。神はザカリヤとエリサベトを絶えず見守っておられ、彼らの祈りが民の祈りと合わせられて、民を神に立ち返らせるという使命を帯びた洗礼者ヨハネの誕生の物語があるのです。
ヨハネの誕生に際してはザカリヤもエリサベトも喜び、神に感謝したことでしょう。しかし、ヨハネの生涯は平穏無事ではなくて、その「義」の追求の故に殺されていくものでした。「エリヤの霊と力で主に先立って行」くものだったのです。イエスの道を備えるためであったことがすでにここで描かれている、十字架を予見させる仕方で首をはねられるのです。
神の歴史に巻き込まれてしまっている者には、どのような苦難があろうとも神によって守られてしまっているという信仰が備えられていることが今日の聖書の告げるところです。近づいてくるクリスマスの音信イエスとしての登場によって神が人間の歴史に介入した物語から、希望のないこの時代に向かって語られるクリスマスの備えの心構えを共に学びたいと願っています。
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