ルカによる福音書 1章26~38節 「神の言葉は事件である」
マリヤのところに現れた天使の「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。」(1:28)は、神の恵みに包まれてしまっているのだという宣言です。ただでさえ天使からの挨拶に驚いているのに、自分に見の覚えがないことで身ごもって男の子を生むという告知にさ、らに戸惑いが増したことだろうと思います。イエスと名付けよと言われ、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」(1:32)と告げられます。
どうしてそんなことが起こるのか、とマリヤは問います。しかし、あり得ないことが起こるのです。人間の常識とか、あるいは計算できる範囲を越えたことが神の力によって巻き込まれることで起こりうるし、そこに神の思いがあるということです。その可能性に対して自らを開いていくことができるか否かという信仰的決断というものが、クリスマスにおける一つの態度決定ではないでしょうか。
わたしたちが考えている歴史の中でおよそ起こりうることがないことが、起こる可能性を神は引き起こすのだというのです。マリヤは思いめぐらす中で、まだ見ぬ子どもの<いのち>、そしてその生涯に対して希望を抱きます。天使の言葉によれば「神にできないことは何一つない」(1:37)からです。
わたしたちの、ものの考え方の筋道を越えていく神の全能の可能性があり、それを信じることができるということです。マリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)と答えます。神から委ねられたメッセージをもってきた天使の言葉には神の思いが込められていますから、「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉によって、自らを引き受けていく、将来がどのようなものであろうと引き受けていく勇気、ないしは希望がそこにはあるということです。
わたしたちはクリスマスに光を灯し、そこに象徴されるイエス・キリストを迎えます。わたしたちの世界があまりにも暗く、この国の暗さというものは絶望的であると思えます。しかし、光は希望です。マリヤの言葉を、わたしたち自身が自らの言葉として引き受け、同時に「主イエスよ、来てください」と祈り、イエス・キリストの来臨の約束を待つことが赦されているのです。だからこそ、わたしたちはマリヤと声を合わせて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と祈りながら主イエスの降誕の備えとしましょう。イエス・キリストの光を受け、その光を反射させるようにして、この世を旅人として歩む責任性を全うしたいと願うものです。ここに神の言葉が事件となるという出来事が知らされているのです。
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