マルコによる福音書 4章30~32節 「土に蒔くときには」
からし種という1ミリ前後の直径の粒が、そのままで「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(4:32)約束があり、これが神の国なのだ、との宣言です。
ここでは世界樹という考え方が前提とされており、その思想は、旧約にも影響を見ることができます。エゼキエル書31章3節から9節では、エジプトのファラオが神の園エデンもすべての木も羨むような見事なレバノン杉にたとえられています。また、ダニエル書4章ではバビロンの王ネブカドネツァルが夢の中で見た木が、この王自身を表しています。いずれの木もその梢は天を突き、その大枝は地の果てまでにまで及び、その木陰には多くの国民が住み、枝の間には空の鳥のすべてが巣を作るのだと。つまり、王が太い幹であり、年輪を増すように権力が増大し、枝や葉が茂るのは、その権力の広がりの勢いを示しているのです。いわば、一本の木によって世界帝国の野望が表現されているのです。
このような思想はエジプトやバビロンが栄えていた時代だけにとどまりません。弱小イスラエルもこのような覇権主義的発想から自由ではありません。いつか自分たちも、という願いから抜け出せない傾向をもっているからです。たとえば、エゼキエル書17章2節から24節で展開されているのは、エジプトとバビロニアの間にあって右往左往し翻弄されるイスラエルが、その後バビロン捕囚の運命から解放されてパレスチナに帰っていく希望です。今やレバノン杉はバビロンでもエジプトでもない、イスラエルの高くそびえる山に植えられると言うのです。「うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」と。つまり、イスラエルの覇権主義の実現の暁には、世界の中心がイスラエルとなり、空の鳥(=異邦人)を住まわせてやる、こんな発想があるのです。日本も、この発想から自由ではありません。
しかし、イエスは、世界樹の思想から連想される覇権主義の野望を認めていないことが今日のたとえから読み取ることができるのではないでしょうか。小さなからし種の成長という世界観、庶民レベルに世界観を取り戻すのです。日々の生活から離れて神の国はない。当たり前の、身近な生活の中にこそ、神の国の発見の可能性が秘められているというのです。つまり、「あなたがたのただ中に」。
成長の約束は、イエスがたとえにおいて断言したことにより、動き始めているのです。からし種として生きることへの招きに従っていくことができるのです。からし種を見つめながら成長の約束に生きる時、他の小さなからし種の命と繋がっていくことへの招きがあり、ここにこそ神の国は立ち現われて来るのです。
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