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2013年11月

2013年11月24日 (日)

マルコによる福音書 4章30~32節 「土に蒔くときには」

 からし種という1ミリ前後の直径の粒が、そのままで「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(4:32)約束があり、これが神の国なのだ、との宣言です。
 ここでは世界樹という考え方が前提とされており、その思想は、旧約にも影響を見ることができます。エゼキエル書31章3節から9節では、エジプトのファラオが神の園エデンもすべての木も羨むような見事なレバノン杉にたとえられています。また、ダニエル書4章ではバビロンの王ネブカドネツァルが夢の中で見た木が、この王自身を表しています。いずれの木もその梢は天を突き、その大枝は地の果てまでにまで及び、その木陰には多くの国民が住み、枝の間には空の鳥のすべてが巣を作るのだと。つまり、王が太い幹であり、年輪を増すように権力が増大し、枝や葉が茂るのは、その権力の広がりの勢いを示しているのです。いわば、一本の木によって世界帝国の野望が表現されているのです。
 このような思想はエジプトやバビロンが栄えていた時代だけにとどまりません。弱小イスラエルもこのような覇権主義的発想から自由ではありません。いつか自分たちも、という願いから抜け出せない傾向をもっているからです。たとえば、エゼキエル書17章2節から24節で展開されているのは、エジプトとバビロニアの間にあって右往左往し翻弄されるイスラエルが、その後バビロン捕囚の運命から解放されてパレスチナに帰っていく希望です。今やレバノン杉はバビロンでもエジプトでもない、イスラエルの高くそびえる山に植えられると言うのです。「うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」と。つまり、イスラエルの覇権主義の実現の暁には、世界の中心がイスラエルとなり、空の鳥(=異邦人)を住まわせてやる、こんな発想があるのです。日本も、この発想から自由ではありません。
 しかし、イエスは、世界樹の思想から連想される覇権主義の野望を認めていないことが今日のたとえから読み取ることができるのではないでしょうか。小さなからし種の成長という世界観、庶民レベルに世界観を取り戻すのです。日々の生活から離れて神の国はない。当たり前の、身近な生活の中にこそ、神の国の発見の可能性が秘められているというのです。つまり、「あなたがたのただ中に」。
 成長の約束は、イエスがたとえにおいて断言したことにより、動き始めているのです。からし種として生きることへの招きに従っていくことができるのです。からし種を見つめながら成長の約束に生きる時、他の小さなからし種の命と繋がっていくことへの招きがあり、ここにこそ神の国は立ち現われて来るのです。

2013年11月17日 (日)

マルコによる福音書 4章26~29節 「神に委ねて生きよう」

 イエスは義とか罪とかの基準によって命は裁かれることはないと考えていたようです。さらに言えば、すべての命は神に祝福されてしまっている尊いものであり、その命を傷つけ貶めることは赦されないと考えていたのです。当時のユダヤ教社会では、一旦穢れた、罪ありと断罪されたならば、その人は神に喜ばれていない存在であると理解されていたからです。ファリサイ派、律法学者の人たちから様々な非難が起こる時にイエスは正面から闘っていかれた。それは、ひとりの命をいとおしく大切にする態度であったわけです。
 今日の聖書は農夫が種を蒔いて、放っておいて夜昼寝起きしていれば勝手に育つのだというのです。イエスが農夫の仕事の大変さを知らなかったわけがない。種をまく前に耕し肥料を与え、種を蒔いた後も水を与え雑草を取り、毎日のように面倒をみる、その大変さを知らなかったわけがない、にもかかわらずあえて放っておけばいいのだと言うのです。これは蒔かれた種に宿った命というものが土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれてしまっている時には、ほっといたって、すでに祝福されているのだから、ぐんぐん育っていくのだから安心だし大丈夫だという楽天性に基づいているのです。
 一粒の種にしても一人ひとりに与えられている命にしても、それはもう人間の側から作り出す権利も技術もないものですから、わたしたちはただそれを、命が与えられていることを受け入れるということしかありません。イエスがすべての命、一人ひとりの命を、今あるがままで、もうすでに神に喜ばれてしまっているから一切自由だということをイエスは言葉と振る舞いにおいてなしていったのです。全面的に命というものを神に委ねていくという生き方が一貫していると言えるでしょう。
 イエス・キリストを信じるということは、イエスの在り方をわたしたちが倣うことです。一粒の種がすでに祝福されてしまっていて、放っておいても、その命は確実に守られているのだというイエスのおおらかさをわたしたちは再解釈する必要があると思います。その一貫した生き方の集約された言葉がゲッセマネでの祈りにあります「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36)と。全くの絶望の中にありながらも、その根幹には神に対する全面委任、神に委ねていく、命がすべて神によって守られていることへの確信からなされた祈りです。この祈りに支えられた今日の聖書から、神に委ねていく生き方を神の思いとして受けとめましょう。

2013年11月10日 (日)

ヨハネによる福音書 10章7~16節 「イエスさまは羊飼い」

 (子ども祝福合同礼拝)
 羊飼いと羊を連想させる聖書の物語に出エジプト記があります。昔イスラエルの人たちはエジプトというとても大きな国で奴隷として朝から晩まで辛い労働を休みなく与えられていました。辛い毎日です。その辛さを神さまは見て聞いて、助けてあげたいと考え、モーセという人を選びます。イスラエルの人たちは、モーセを先頭にしてエジプトから逃げていくことによって救われるのです。この旅は40年続きます。先頭に立つモーセの手がしていたのは羊飼いのもつ杖でした。
 羊って、毛がフワフワしていて可愛いとか、おとなしくて素直だと思いますか。羊を飼ったことのある人から聞いたのですが、なかなか言うことを聞かないし、やんちゃで我儘だし、悪知恵が働いて逃げ出したりするようです。見守られていないと道を踏み外してしまう危うさが羊にはあるということですね。
 モーセに連れられたイスラエルの人たちもそうでした。せっかく神さまによって助け出され、奴隷の身分から自由になったのに、水の不安や食べ物の不満や愚痴などを口にするようになったり、また神さまを裏切ったり、疑ったりすることから自由でなかったのです。でも、なかなか言うことを聞かないし、我儘だし、悪知恵が働いて逃げ出したりするような羊たちを神さまは、決して見捨てることはしないのです。
 教会は、この羊飼いがイエスさまだと信じて、自分たちがいつも守られていることを信じています。でも、相変わらず、なかなか言うことを聞かないし、我儘だし、悪知恵が働いて逃げ出したりするような羊たちなのかもしれません。
 今日の聖書にあるように、イエスさまは、良い羊飼いです。羊たちがどんなであろうとも、命をかけて守ってくださる、まことの羊飼いなのです。この羊飼いであるイエスさまの守りの中で、子どもたちは祝福され、愛されて育っていくことが赦されているのです。そしておとなは、同じように羊飼いの守りの中で愛されて生きる羊であると同時に、イエス・キリストに倣う、という生き方を神から与えられているのです。すなわち、子どもたちが愛されて育っていくことに全力を注いでいくということです。現実の社会を、子どもが生きやすいところにしていく責任があります。その上でなお、おとなも子どもも一緒に神の羊として愛し愛されながら教会という輪の中でお互いの命を喜びあうようにと招かれ、導かれているのです。
 イエスさまが、命を十字架にかけてささげてくださることによって、すべての羊をどんなことがあっても守る抜くぞという心を、今日わたしたちは受け取ることができるのです。

2013年11月 3日 (日)

詩編 130:1~8 「主に望みを」

 わたしたち残された者は生きている者の責任として、この世を一人ひとりがしっかりと全うしていくことが赦されています。そのことがイエス・キリストによって受け入れられているということを受け入れる、いわば受容の受容が信仰的態度です。故人との関係が心の一番いいところまで納め続けられるようにとの歩みが、この世に残された者の責任であり使命です。
 「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」130:1‐2)遺族として生きる誰もが共感する言葉であろうと思います。教会においては、イエス・キリストの十字架と復活において、わたしたち一人ひとりが受け入れられていることを受け入れている、その守りの内において、わたしたちは充分に嘆き祈ることが赦されているのです。
 「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。」(130:3)とあるように、主なる神が、わたしたちの弱さに象徴されるところの罪というものを引き受けてくださらなければ、わたしたち残された者は決して耐えることができないのです。「しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」(130:4)、そのような弱さを抱えながらも故人を偲び、さらには過去にさかのぼって、あの瞬間、自分が無力であったということさえも神のもとにあっては赦しに包まれているのです。
 わたしたちもやがて神のもとに迎え入れられる、その約束の下わたしたちはこの世を精いっぱい祈りつつ生き続ける責任があります。それを支えるのが5節6節の言葉です。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。」やがて神のもと近しい人たちとの再会できるという約束に望みをおくことができるのだ、そのような促しとして、イエス・キリストがわたしたちの前にあるのだという信仰です。それが受容の受容において、わたしたちは再会の希望という主の望みをおくことができるとの言葉です。
 主に望みをおく者には、待つことにおいて耐えうる力が与えられている。そのことをこの世を精いっぱい生きることにおいて証していく、そのことが故人に対する関係をより親密なものにしていくということだと思います。
 イエス・キリストの神に守られている、受け止められている、そして今は神のもとにいるお一人おひとりが平安であることを信じ、残された者の責任として、この世を着実に生きていきながら、その関係を育てていくようにというのが永眠者を覚えながら礼拝を守ることの意味です。

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