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2013年11月17日 (日)

マルコによる福音書 4章26~29節 「神に委ねて生きよう」

 イエスは義とか罪とかの基準によって命は裁かれることはないと考えていたようです。さらに言えば、すべての命は神に祝福されてしまっている尊いものであり、その命を傷つけ貶めることは赦されないと考えていたのです。当時のユダヤ教社会では、一旦穢れた、罪ありと断罪されたならば、その人は神に喜ばれていない存在であると理解されていたからです。ファリサイ派、律法学者の人たちから様々な非難が起こる時にイエスは正面から闘っていかれた。それは、ひとりの命をいとおしく大切にする態度であったわけです。
 今日の聖書は農夫が種を蒔いて、放っておいて夜昼寝起きしていれば勝手に育つのだというのです。イエスが農夫の仕事の大変さを知らなかったわけがない。種をまく前に耕し肥料を与え、種を蒔いた後も水を与え雑草を取り、毎日のように面倒をみる、その大変さを知らなかったわけがない、にもかかわらずあえて放っておけばいいのだと言うのです。これは蒔かれた種に宿った命というものが土に象徴されるところの神の守り、慈しみの中におかれてしまっている時には、ほっといたって、すでに祝福されているのだから、ぐんぐん育っていくのだから安心だし大丈夫だという楽天性に基づいているのです。
 一粒の種にしても一人ひとりに与えられている命にしても、それはもう人間の側から作り出す権利も技術もないものですから、わたしたちはただそれを、命が与えられていることを受け入れるということしかありません。イエスがすべての命、一人ひとりの命を、今あるがままで、もうすでに神に喜ばれてしまっているから一切自由だということをイエスは言葉と振る舞いにおいてなしていったのです。全面的に命というものを神に委ねていくという生き方が一貫していると言えるでしょう。
 イエス・キリストを信じるということは、イエスの在り方をわたしたちが倣うことです。一粒の種がすでに祝福されてしまっていて、放っておいても、その命は確実に守られているのだというイエスのおおらかさをわたしたちは再解釈する必要があると思います。その一貫した生き方の集約された言葉がゲッセマネでの祈りにあります「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(14:36)と。全くの絶望の中にありながらも、その根幹には神に対する全面委任、神に委ねていく、命がすべて神によって守られていることへの確信からなされた祈りです。この祈りに支えられた今日の聖書から、神に委ねていく生き方を神の思いとして受けとめましょう。

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