ヨハネによる福音書 10章7~16節 「イエスさまは羊飼い」
(子ども祝福合同礼拝)
羊飼いと羊を連想させる聖書の物語に出エジプト記があります。昔イスラエルの人たちはエジプトというとても大きな国で奴隷として朝から晩まで辛い労働を休みなく与えられていました。辛い毎日です。その辛さを神さまは見て聞いて、助けてあげたいと考え、モーセという人を選びます。イスラエルの人たちは、モーセを先頭にしてエジプトから逃げていくことによって救われるのです。この旅は40年続きます。先頭に立つモーセの手がしていたのは羊飼いのもつ杖でした。
羊って、毛がフワフワしていて可愛いとか、おとなしくて素直だと思いますか。羊を飼ったことのある人から聞いたのですが、なかなか言うことを聞かないし、やんちゃで我儘だし、悪知恵が働いて逃げ出したりするようです。見守られていないと道を踏み外してしまう危うさが羊にはあるということですね。
モーセに連れられたイスラエルの人たちもそうでした。せっかく神さまによって助け出され、奴隷の身分から自由になったのに、水の不安や食べ物の不満や愚痴などを口にするようになったり、また神さまを裏切ったり、疑ったりすることから自由でなかったのです。でも、なかなか言うことを聞かないし、我儘だし、悪知恵が働いて逃げ出したりするような羊たちを神さまは、決して見捨てることはしないのです。
教会は、この羊飼いがイエスさまだと信じて、自分たちがいつも守られていることを信じています。でも、相変わらず、なかなか言うことを聞かないし、我儘だし、悪知恵が働いて逃げ出したりするような羊たちなのかもしれません。
今日の聖書にあるように、イエスさまは、良い羊飼いです。羊たちがどんなであろうとも、命をかけて守ってくださる、まことの羊飼いなのです。この羊飼いであるイエスさまの守りの中で、子どもたちは祝福され、愛されて育っていくことが赦されているのです。そしておとなは、同じように羊飼いの守りの中で愛されて生きる羊であると同時に、イエス・キリストに倣う、という生き方を神から与えられているのです。すなわち、子どもたちが愛されて育っていくことに全力を注いでいくということです。現実の社会を、子どもが生きやすいところにしていく責任があります。その上でなお、おとなも子どもも一緒に神の羊として愛し愛されながら教会という輪の中でお互いの命を喜びあうようにと招かれ、導かれているのです。
イエスさまが、命を十字架にかけてささげてくださることによって、すべての羊をどんなことがあっても守る抜くぞという心を、今日わたしたちは受け取ることができるのです。
« 詩編 130:1~8 「主に望みを」 | トップページ | マルコによる福音書 4章26~29節 「神に委ねて生きよう」 »
「ヨハネによる福音書」カテゴリの記事
- ヨハネによる福音書 8章31~38節 「真理はあなたがたを自由にする」(2024.09.01)
- ヨハネによる福音書 8章3~11節 「主イエスは見ている」(2024.08.18)
- ヨハネによる福音書 7章40~52節 「対立の中で」(2024.08.11)
- ヨハネによる福音書 6章41~59節 「イエスの肉と血」(2024.07.28)
- ヨハネによる福音書 6章22~27節 「いのちの糧」(2024.07.21)
« 詩編 130:1~8 「主に望みを」 | トップページ | マルコによる福音書 4章26~29節 「神に委ねて生きよう」 »
コメント