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2013年10月 6日 (日)

マルコによる福音書14章34~50節 「赦しは底が抜ける」

 キリスト教会の常識ではイスカリオテのユダは主イエスを権力に売り渡した張本人として断罪され「裏切り者」というレッテルが張られています。しかし、マルコ福音書を丁寧に読むと、必ずしも彼だけが裏切ったのではないことが分かります。
 14:27-31では主イエスが弟子たちの離散について語り、ペトロは他の者がつまづいても自分はそうでないと断言しています。そこで主イエスは、鶏が二度鳴く前に三度、ペトロが自分を知らないと言うだろうことを前もって語るのです。それでも「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った」(31節)。ユダだけではなく、ペトロを始め「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)。皆が裏切り者であることは否定できないのです。
 しかし主イエス・キリストは、そのような弟子たちのことをすべてご存知であり、やがて裏切りゆくことを引き受けてくださっているのです。弟子たちの現実は「つもり」や「決意」が確かであったとしても弱さから逃れられないのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われても「心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。限界があるのです。
 弟子たちの姿において表わされているのは、歴代のキリスト教会が犯してきた裏切りや背信です。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)との宣言からの逃避です。日本基督教団も例外ではありません。
 今日は世界聖餐日です。これは1940年に世界が戦争に向かう中で北米キリスト教連盟から提唱され、差別や人種問題等々を抱えながらイエス・キリストの恵みにおいて共にキリストの体と血潮とを恵みとして受けるということにおいて平和を祈り求めるところから始まったようです。
 世界中の教会が聖餐を今日共に祝うのは、ただ単に世界教会の連帯への意志を確認するためだけではありません。今日の聖書の記事に先立って(22-25節)、ユダをも含めた弟子という名の裏切り者集団が、主の食卓にあずかることにおいて、すでに底抜けの赦しに与ってしまっていることに注目しましょう。主の食卓である聖餐には、キリストの身体と血潮とを強烈に象徴するパンとブドウ液において底抜けの赦しが与えられているのです。
 裏切りゆく者たちに対して先立つ赦しがあるのです。この赦しに与る者は、自らの罪の自覚に導かれ、この世を旅する教会が「平和を実現」すべく召されている使命に生きることへの招きを感謝をもって受けるのです。主イエスの底の抜ける赦しにおいて教会は生かされているのです。

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