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2013年10月

2013年10月27日 (日)

マルコによる福音書 2章13~17節 「人生のやり直し」

 徴税人は庶民感情からも律法の観点からも非常に嫌われていました。イエスという方は、このような事柄に対して無頓着です。あなたもわたしの仲間だよ。あなたが不当な利益を得ていたとしても、あなたのいのちはそのままでOKだというのです。徴税人レビがイエスに従った後、彼の家で食事を共にします。ユダヤ教徒は自分が神の前に正しいかという大きな決定点は食物規定にあります。どう作られた何を、誰と、どのように食べるか等々細かい規定がありました。罪人、その可能性がある人と一緒に食事をするなど考えられず、穢れが移るのでそれを見るのも聞くのも嫌がりました。だから、ファリサイ派の律法学者たちは、なぜ徴税人や罪人たちと食事をするのか、と言うのです。
 イエスは誰とでも、一切の境界線を乗り越えて人々と食事をします。社会全体に対する非常に大きな挑戦なのです。イエスには分け隔ての心がないのです。越境していくおおらかさというものによって、当時の社会的な通念とか概念を突き破っていくのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というのは、正しい人も射程に入っているのです。イエスの招きには、その人が誰であろうが、どのような状況にあろうが、一緒に食事をするぞ、という決意があります。なので、ファリサイ派の人がいてもいいのです。
 何をどのように食べるかとは、どのような生き方をするのかと深い関わりがあります。つまり、食物規定を越えて食べていくということは、生き方における自由さがあるのです。なので、イエスの振る舞いというのは当時の社会にとって非常な危険思想であり、結果十字架に至るのです。「わたしに従ってきなさい」というイエスの一言は、当時の社会通念とか善悪であるとかを一切越えるような招きの言葉なのです。あなたがいかなる社会的地位にあろうが社会的に貶められていようが、尊敬されていようが軽蔑されていようが、裕福であろうが貧しい人であろうが、そんなことは一切関わりがないし、対象から外れることは決してあり得ないという非常に激しい招きの言葉です。招かれる側の資格というものは一切人間の側から作り出すことができない。主イエスご自身が、そのような言葉を語りたいから語っているわけで、その人の状況がどのようなものであったとしても、一切資格には関係がない。
 「わたしに従ってきなさい」と言われる言葉が、わたしに向かって語られている。今日のテキストで言うと、あの当時のアルファイの子レビが実は、わたしなのではないか、と読みとることができるのであれば、すぐさま立ちあがって、つまり今自分が座り込んでしまっているところから立ちあがって人生のやり直しに向かって歩みだす可能性に開かれているのです。

2013年10月20日 (日)

創世記 1章31節 「神の思いに応えたい」

~キリスト教教育週間をテーマにして~
  神はこの世界を六日間で創造して七日目に休まれました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とは六日目の言葉です。この世界は本当は素敵なものなんだよ、と聖書は語っています。神はすべての人が幸せに生きられるように、この世界を創造されたということです。ところが、旧約聖書を読んでいくと、人間の歴史は神の思いに応えようとしない、裏切りの連続です。
 今日ミャンマーという国で争いが続いています。第二次世界大戦までの歴史も第二次大戦後、イギリスの植民地から1948年に独立したあとも困難続きです。ミャンマーには色々な民族がありますが、その中の多数派を占めているビルマの民族、しかも軍隊が支配するようになったのです。少数派の人たち、少数民族の人たちが辛い目にあわされたり、不当な扱いを受けたり、弾圧されるようになって来たのです。これが今でも起こっています。ミャンマーないしはビルマという国は非常に混乱しており、自分の国に住めなくて世界中に逃げている人たちも大勢います。
 先程、写真と説明で国の中で逃げているカチンという民族様子を知らされました。このカチンという民族はミャンマーだけではなくタイの山岳地方にもいます。カチン語という言葉と自分たちの文化をもっています。そして、今はミャンマーの軍隊とカチンの軍隊は戦争をしたり停戦したりしています。おとなはいつも自分たちの権力とか欲望とか願いとかを最優先して争いごとを起こします。その中で、子どもたちは生きています。
 神の子どもは、一人ひとりが大切にされて毎日を心穏やかに暮らす権利をもっています。鉄砲の音にビクビクしながらではなく。しかし、安心して暮らせない状況の中で、カチンの人たちは山の中の出来るだけ安全な場所、ミャンマーの軍隊に見つからないように隠れるようにして暮らしています。そうしないと生き残れないからです。神様によって与えられた大切な命、その価値は誰ひとり損なわれてはなりません。不当な仕方で傷つけられたり殺されたりしてはならないのです。それなのに、この世界はそのような戦争や紛争のただ中にある現実におかれているのです。
 主イエスが「極めて良かった」神の思いを受けて何を活動したのか?それは一人ひとりが今生きているままで祝福されているし、その命は大切なんだよ、と訴えていくことでした。教会は主イエスの言葉にあるように「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ6:9)と聞いています。教会は世界中の平和を祈るように求められています。イエス・キリストの思いに応えられるような教会になっていきましょう。

2013年10月13日 (日)

「敵を愛しなさい」            竹花牧人

 初めまして。農村伝道神学校三年生の竹花牧人と言います。この学校に来るに至った経緯は多々あります。その中でも大きいものを紹介し、今回の聖書箇所と絡めてお話したいと思います。まず、生まれは、栃木県の小山市という場所です。小学校から高校までずっと小山で育ちました。転機は大学に進学するときでした。本来関東にいる学生は東京の大学に進学するのがごメジャーでしたが、私は東北の仙台の東北学院大学という学校に進みました。理由はこの学校にキリスト教学科という学科があったからです。私の家は四代にわたり牧師の家系です。しかし、私は残念ながら、しょうめい感があったわけではなくただ、牧師の子供なら入学しやすいのではというよこしまな考えからでした。そのため、大学のキリスト教の勉強は入学当初つまらなく退屈なものでした。そのためからか、当時からバンド活動をしていたこともあり、大学三年生の時、学校を休学し音楽活動をしていました。完全に夜型の生活になり、またジャンルもヴィジュアル系という特殊なものだったので、様々な人間に出会い、音楽方面にはかなり詳しくなりました。この生活に私は満足をしていたのですが、そのころからか、精神が少しおかしくなりました。病院に行き検査した結果統合失調症という病名だと分かりました。この病気が一番酷かった時は、回りの会話、電車の音、外の騒音、すべてが私自身に対する誹謗中傷に聞こえ、外に一歩も出れない状態になりました。病気の影響からか、この世の中はすべて敵だと誇大妄想にとりつかれていました。誰に相談しても理解してもらえず、最後に頼ったのは自分が良く知る神でした。酷い精神状態で今回のルカ6:27~36を読みました。そこで、初めて、自分の求めるものは、自分を愛してくれる存在ではなく、同じ目線で、自分を愛してくれていない人を愛するというこなんだということでした。つまりは敵を愛するということでした。はっきり言って自分以外他人はいくら仲良くなっても自分自身のように理解することはできません、ただ、愛することを求めるのではなく、自分が相手にしてあげたいことをする、それが敵だとしても、それこそが、私の病気を治す最大の近道であり、愛の実践であると確信しています。

2013年10月 6日 (日)

マルコによる福音書14章34~50節 「赦しは底が抜ける」

 キリスト教会の常識ではイスカリオテのユダは主イエスを権力に売り渡した張本人として断罪され「裏切り者」というレッテルが張られています。しかし、マルコ福音書を丁寧に読むと、必ずしも彼だけが裏切ったのではないことが分かります。
 14:27-31では主イエスが弟子たちの離散について語り、ペトロは他の者がつまづいても自分はそうでないと断言しています。そこで主イエスは、鶏が二度鳴く前に三度、ペトロが自分を知らないと言うだろうことを前もって語るのです。それでも「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った」(31節)。ユダだけではなく、ペトロを始め「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)。皆が裏切り者であることは否定できないのです。
 しかし主イエス・キリストは、そのような弟子たちのことをすべてご存知であり、やがて裏切りゆくことを引き受けてくださっているのです。弟子たちの現実は「つもり」や「決意」が確かであったとしても弱さから逃れられないのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われても「心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。限界があるのです。
 弟子たちの姿において表わされているのは、歴代のキリスト教会が犯してきた裏切りや背信です。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)との宣言からの逃避です。日本基督教団も例外ではありません。
 今日は世界聖餐日です。これは1940年に世界が戦争に向かう中で北米キリスト教連盟から提唱され、差別や人種問題等々を抱えながらイエス・キリストの恵みにおいて共にキリストの体と血潮とを恵みとして受けるということにおいて平和を祈り求めるところから始まったようです。
 世界中の教会が聖餐を今日共に祝うのは、ただ単に世界教会の連帯への意志を確認するためだけではありません。今日の聖書の記事に先立って(22-25節)、ユダをも含めた弟子という名の裏切り者集団が、主の食卓にあずかることにおいて、すでに底抜けの赦しに与ってしまっていることに注目しましょう。主の食卓である聖餐には、キリストの身体と血潮とを強烈に象徴するパンとブドウ液において底抜けの赦しが与えられているのです。
 裏切りゆく者たちに対して先立つ赦しがあるのです。この赦しに与る者は、自らの罪の自覚に導かれ、この世を旅する教会が「平和を実現」すべく召されている使命に生きることへの招きを感謝をもって受けるのです。主イエスの底の抜ける赦しにおいて教会は生かされているのです。

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