詩編71 「老いは祝福である」
老いていくということは必ずしもマイナスではないと、人生半ばを過ぎて、実感として考えることができるようになってきました。色々なところに弱りが出て来る、怪我をしても治りにくくなってくる、そういう自分を受け入れる。今まで神の守りがあったように、これからもきっと守ってくださるに違いないし、それが確かなのだという信頼において歳を重ねていくということ、そこには祝福があるのではないでしょうか。
気力が落ち、体力が落ちて来る中で、それまで身に付けたものが、いわば余計なものとして削ぎ落とされていって角が取れて丸くなってくる。よりピュア、純粋なものとして磨き込まれていくような、そういう事柄が老いにあるところの祝福なのではないかと思います。わたし自身を顧みてみれば、今までイエス・キリストの神に対して懐疑的であり、聖書に対しても非常に批判的な読みを学んできましたが、そういうものを踏まえながらも、素朴な信仰、シンプルな信仰というものに向かっていく。つまり、知というものを追及していって、その知というものを老いによって削ぎ落としていく中で、よりシンプルな純粋な信仰が与えられていく。
今日の詩編71を書いた詩人、これを歌った著者は、そのことをよく分かっていた。よく分かっていたということは、神に対する信頼です。これまでの守りと、それからこれからの守りが確かであるという信頼において率直に自分の思いを祈ることが出来るのは、神の祝福が前提とされているからです。
順風満帆な人生を送れる人は極僅かでしょう。お先真っ暗だ、生きるか死ぬかだという経験をした方も少なからずいらっしゃるだろうと思います。けれども、今、命が貸し与えられているという事実は神の守り以外の何ものでもない。
老いていく、その弱りのただ中に神は祝福として存在する。その実現が教会の理解によれば、イエス・キリストご自身であるということです。イエス・キリストご自身がゲッセマネの園で、神の守りが確かであることに基づいて率直に自分の願いを祈られた。その中で「わたしの願いではなく、御心のままに」と転じて行くのです。このようにわたしたちの祈りも正されていくのです。その正されていく約束があるからこそ、わたしたちは率直に自分の願望を祈っていくことが赦される。率直に祈りつつ「御心のままに」と委ねることで、神によって支えられ、今日も祝福されているという平安の中で老いの道を歩むことが出来るのです。このことを覚えながら、この礼拝に高齢のため出席できていない方々にも思いを馳せ、老いて行くただ中にあって、一人ひとりの信仰が磨き抜かれて行くことをイエス・キリストにあって祈りたいと思います。
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