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2013年9月

2013年9月29日 (日)

マルコによる福音書 13章24~26節 「約束に生きる」 

 聖霊降臨によって起こされた教会は、聖霊の働きに導かれて伝道しつつ、この世を歩みます。やがて来るべき日に主が来られるという中間の時を生きるのです。
 その中間時における心構えというものが、マルコによる福音書によれば「気を付けている」と「目を覚ましている」こととして理解されます。熱狂的にではなく、非陶酔的な終末待望を生きるのです。これが、この世を旅する教会の立場です。テキストは述べます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。『それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。』」(13:32‐26)と。
 13章はイエスの言葉を福音書記者が再録したということだけではなくて、絶望のただ中にあった2千年前のシリア・パレスチナにおける人々の苦難の歴史がその背景にあります。66年から70年の第一次ユダヤ戦争によって荒れ果てた状況があるのです。焼け出されて一面が焼け野原になっているような状況を前提としながら、福音書記者はイエスの口に13章の文言を入れたのです。つまり、希望を見出すことすらできなくとも、まだ終わりではないのだと、希望がありうると励ましを与えるのです。教会は非陶酔的に冷静に物事を観ていきながら、その時々に相応しい行動、そのような意味における伝道活動をしていけとの促しがあるのです。
 マルコの眼前にあるのは、希望が持てない状況です。その中で気を付けていることと目を覚ましていることとが求められているのです。確かに人の子がやってくる時には暗闇がやってくる。けれども、それは一時のことで、人の子が来られる時には栄光の主として来られるのだから、その約束の中で世界をもう一度見ようではないか。どのような絶望的な状況が眼前にあったとしても、それを耐えうる力と希望がイエス・キリストの来臨の約束において備えられていると信じ折るのです。
 イエス・キリストから与えられた使命をどのように全うしていくのか、を主が再び来られる日まで、熱狂的にならず堅実に歩み、また自暴自棄にならず、よく考え祈り、聖書と対話し続けるのです。よりイエス・キリストに相応しいあり方を模索しながら、この世において歩んでいくべき道を絶えず捉え返していくところにこそ、約束に生きる教会の姿があるのです。

2013年9月22日 (日)

マルコによる福音書 7章24~30節 「共鳴が起こる」

 「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(6:31)この言葉は、イエスも弟子たちも休むに休めない状況であったことを示しています。疲れ果てているイエスはティルスに行き、しばしの休暇を取りたかったのでしょう。
 ところが、もうすでにイエスの噂は伝わってしまっているのです(3:7-8)。噂を聞きつけた、ある女の人がやってきます。自分の娘に取り付いている悪霊を追い出してほしい、と。彼女は足元にひれ伏し、癒してほしくて頼みます。イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と言います。「子供たち」というのは、イエス御自身のことだろうと思います。「十分食べさせなければならない」というのは、食べる間もなく寝る間もなく働いているわたしの、せっかくの休日なのだから、ゆっくり食べゆっくり寝、休憩させてほしい、その時間は貴重なものだから奪わないでくれと、頼むよ、分かってくれ、という言葉です。それに対して、この女の人は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と返します。
 人に対して犬と呼ぶのは蔑みの言葉になります。皮肉を込めて、わたしの貴重な休憩の時間を取るなと言ったのです。ところが彼女は、イエスが食べこぼしてしまったようなパン屑は頂いても構いませんよね、と食い下がります。つまり、確かにイエスは休暇のために来ているけれども、休日といっても分刻み秒刻みで休暇を過ごしているわけではないのです。ふとした時間のこぼれがあるはずなのです。だから、あなたの貴重な休暇の時間をあえて頂きたいとは思わない、だけれども、その貴重な時間からこぼれ出てしまうような時間があるでしょうから、その時間をくださいませんか、と機知に富んだことを言ったのです。そこで、イエスはハッとします。あ、そうか、この人のことを気が付かないところで蔑んでいた、自分を最優先する気持ちが早ってしまっていた。自分の休みからこぼれ落ちる時間があるということに気付かされるのです。
 イエスは、固定化されていた感覚が別の方向にズレて、この人の言っていることは尤もだ、この言葉には真があると気が付いたのです。田川建三訳では29節が次のようになっています。「そして彼女に言った、『その言葉の故に、行くがよい。娘さんから悪霊は出て行った』」。「その言葉の故に」と、つまりイエスに対して決して引き下がることなく対話していくことによってイエスとの距離が縮まる、心の内にお互いの何かしらの共鳴が起こって新しい事柄が起こりうるという可能性、それに対して開かれているということです。

2013年9月15日 (日)

詩編71 「老いは祝福である」

 老いていくということは必ずしもマイナスではないと、人生半ばを過ぎて、実感として考えることができるようになってきました。色々なところに弱りが出て来る、怪我をしても治りにくくなってくる、そういう自分を受け入れる。今まで神の守りがあったように、これからもきっと守ってくださるに違いないし、それが確かなのだという信頼において歳を重ねていくということ、そこには祝福があるのではないでしょうか。
 気力が落ち、体力が落ちて来る中で、それまで身に付けたものが、いわば余計なものとして削ぎ落とされていって角が取れて丸くなってくる。よりピュア、純粋なものとして磨き込まれていくような、そういう事柄が老いにあるところの祝福なのではないかと思います。わたし自身を顧みてみれば、今までイエス・キリストの神に対して懐疑的であり、聖書に対しても非常に批判的な読みを学んできましたが、そういうものを踏まえながらも、素朴な信仰、シンプルな信仰というものに向かっていく。つまり、知というものを追及していって、その知というものを老いによって削ぎ落としていく中で、よりシンプルな純粋な信仰が与えられていく。
 今日の詩編71を書いた詩人、これを歌った著者は、そのことをよく分かっていた。よく分かっていたということは、神に対する信頼です。これまでの守りと、それからこれからの守りが確かであるという信頼において率直に自分の思いを祈ることが出来るのは、神の祝福が前提とされているからです。
 順風満帆な人生を送れる人は極僅かでしょう。お先真っ暗だ、生きるか死ぬかだという経験をした方も少なからずいらっしゃるだろうと思います。けれども、今、命が貸し与えられているという事実は神の守り以外の何ものでもない。
 老いていく、その弱りのただ中に神は祝福として存在する。その実現が教会の理解によれば、イエス・キリストご自身であるということです。イエス・キリストご自身がゲッセマネの園で、神の守りが確かであることに基づいて率直に自分の願いを祈られた。その中で「わたしの願いではなく、御心のままに」と転じて行くのです。このようにわたしたちの祈りも正されていくのです。その正されていく約束があるからこそ、わたしたちは率直に自分の願望を祈っていくことが赦される。率直に祈りつつ「御心のままに」と委ねることで、神によって支えられ、今日も祝福されているという平安の中で老いの道を歩むことが出来るのです。このことを覚えながら、この礼拝に高齢のため出席できていない方々にも思いを馳せ、老いて行くただ中にあって、一人ひとりの信仰が磨き抜かれて行くことをイエス・キリストにあって祈りたいと思います。

2013年9月 8日 (日)

マルコによる福音書 4章1~9節 「イエスの基本は楽天性」

 今日の種蒔きの物語では、「蒔いたらあるものは30倍、あるものは60倍ある者は100倍にもなった」。直訳すれば「1、30」「1,60」「1,100」です。すなわち、成長して何倍にもなるのではなく、一人ひとりに与えられている<いのち>の種は今のままですでに30,60,100の実りの約束があるのです。例外として道端に落ちた一粒、石だらけで岩盤の上の薄地に落ちた一粒、茨の中に落ちてしまった一粒、蒔かれた種で結局実らなかったのは三粒だけです。この約束のもとで祝福されてしまっているのだということを「聞く耳のある者は聞きなさい」と書かれています。わたしはここにイエスの楽観主義が表れていると考えます。
 物語の聴衆、イエスの周りにいる人たちというのは、生活に困難をおぼえている人、病に苦しんでいる人、様々な悩みや辛さに打ちひしがれている人たちです。いわば、生活の根幹が根こぎにされている大きな不安とか恐れの中にある人たちがイエスの言葉の聞き手なのです。その人たちに対して、その人たちの状態をよくよくわかった上で、イエス・キリストは基本的なあり方とは楽観なのだと語っています。あなたたちは小さな一粒の種であるように自分のことを思っているかもしれないけれど、一粒の種には、今あるがままで、それぞれに30,60,100という約束があるのだと。今もうすでに、その約束のうちにあなたたちは祝福されてしまっている。だから、どのような苦境にあろうとも決して希望を失うことはないのだ、とイエス・キリストご自身が語っているのです。
 種蒔きのたとえで言われているのは、安心して委ねていくことができるということです。それをイエス・キリストご自身が生き抜いて見せた。活動の最初から、神に身を委ねていく仕方で従順と謙遜の道を歩まれた、その基本に楽観性のあることは、真であるのです。
 わたしたち一人ひとりは、全く無意味でも無価値でもありません。孤独でもありません。誰かとの関係の中で、命のつながりがあるのです。時には苦しいこと辛いこと、試練の道があったとしても、ここから逃げ出したいという思いに駆られたとしても、大丈夫なのです。今、置かれている場所、蒔かれた地において、しっかりと根を張って生き抜いていくことが赦されているからです。今おかれている場所で、30,60,100、そのような実りをもたらす生き方が約束されているのです。イエス・キリストが生き抜かれたところの、基本が楽観であるという生、命というものが、そこにはあるのです。そこに向かって身を向けていくことへの促しが「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉です。

2013年9月 1日 (日)

マルコによる福音書 5章25~34節 「遠慮せずに助けを求める」

 この女性は12年間もの間、穢れている断罪され続けていました(レビ記15:25-31参照)。人前に出てはいけないという掟を破り、さらにはイエスがヤイロという人の娘の癒しに向かう途中を引き裂くようにして、やって来たのです。ばれたらどんな非難が待ち受けているか分かりません。しかし、この人なら治してくれるに違いないと、一縷の望みをかけて、今そおっと誰にも気づかれないようにしてイエスの服に触れたのです。
 するとたちまち病は癒されました。イエスは自分の内から力、エネルギーというか気のようなものが出て行ったことに気が付き、触った者は誰か、と問いかけます。震えながら進み出てありのままに語った女性にイエスは言われました「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」。このように娘よ、と親しげに語られたのです。イエスの引き起こす奇跡には、ただ単に病気を治す、その病を引き起こしていると考えられた霊とか悪霊を追い出すだけの働きではなくて、藁にもすがる切なる思いをもった人たちとの心の奥深くでの交わりがあります。何故イエスは奇跡による癒しの業を宣教の中心に据えていたのでしょうか。ここには疎外によって命の輝きを踏みにじる構造悪への怒りがあります。病を穢れた者として断定し罪ありと責め立てる当時の常識社会の根っこにある固定観念、その固定観念によってさらなる苦しみを負わせる社会的な構造悪を打ち破ることによって、解放を告げ知らせるイエスの使命があるのです。
 イエスその人も悪霊の働きによっている、と言われました。いわゆる「ベルゼブル論争」です(マルコ3:20-30)。律法の規定から解放されて、罪や冒涜が赦されると宣言するイエスがここにいます。その時々の神観念を相対化しながら、そこに本当に神の思いが満ちているのかを吟味しながらでないと過ちを犯す、この点を見据えていたのです。神は絶対です。しかし、神が絶対である、そのように口にする人間は絶対ではないのです。この自覚のないところに本来の罪が現れるのです。
 それぞれの時代の中での常識という神によって苦しみを幾重にも負わされる人たちが存在します。現代日本で言えば、イジメや生活保護バッシング、原発被災者の分断などの横行です。ここからの解放がイエスの振る舞いにおいて神の意志として立ち表わされているのです。ですから、人はイエスにあって、命を取り戻すためには何の遠慮もいらないし、常識とされる、その時々の正しさに囚われる必要のないことを確認しておきたいと思います。

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