マルコによる福音書 13章24~26節 「約束に生きる」
聖霊降臨によって起こされた教会は、聖霊の働きに導かれて伝道しつつ、この世を歩みます。やがて来るべき日に主が来られるという中間の時を生きるのです。
その中間時における心構えというものが、マルコによる福音書によれば「気を付けている」と「目を覚ましている」こととして理解されます。熱狂的にではなく、非陶酔的な終末待望を生きるのです。これが、この世を旅する教会の立場です。テキストは述べます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。『それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。』」(13:32‐26)と。
13章はイエスの言葉を福音書記者が再録したということだけではなくて、絶望のただ中にあった2千年前のシリア・パレスチナにおける人々の苦難の歴史がその背景にあります。66年から70年の第一次ユダヤ戦争によって荒れ果てた状況があるのです。焼け出されて一面が焼け野原になっているような状況を前提としながら、福音書記者はイエスの口に13章の文言を入れたのです。つまり、希望を見出すことすらできなくとも、まだ終わりではないのだと、希望がありうると励ましを与えるのです。教会は非陶酔的に冷静に物事を観ていきながら、その時々に相応しい行動、そのような意味における伝道活動をしていけとの促しがあるのです。
マルコの眼前にあるのは、希望が持てない状況です。その中で気を付けていることと目を覚ましていることとが求められているのです。確かに人の子がやってくる時には暗闇がやってくる。けれども、それは一時のことで、人の子が来られる時には栄光の主として来られるのだから、その約束の中で世界をもう一度見ようではないか。どのような絶望的な状況が眼前にあったとしても、それを耐えうる力と希望がイエス・キリストの来臨の約束において備えられていると信じ折るのです。
イエス・キリストから与えられた使命をどのように全うしていくのか、を主が再び来られる日まで、熱狂的にならず堅実に歩み、また自暴自棄にならず、よく考え祈り、聖書と対話し続けるのです。よりイエス・キリストに相応しいあり方を模索しながら、この世において歩んでいくべき道を絶えず捉え返していくところにこそ、約束に生きる教会の姿があるのです。
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