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2013年9月22日 (日)

マルコによる福音書 7章24~30節 「共鳴が起こる」

 「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(6:31)この言葉は、イエスも弟子たちも休むに休めない状況であったことを示しています。疲れ果てているイエスはティルスに行き、しばしの休暇を取りたかったのでしょう。
 ところが、もうすでにイエスの噂は伝わってしまっているのです(3:7-8)。噂を聞きつけた、ある女の人がやってきます。自分の娘に取り付いている悪霊を追い出してほしい、と。彼女は足元にひれ伏し、癒してほしくて頼みます。イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」と言います。「子供たち」というのは、イエス御自身のことだろうと思います。「十分食べさせなければならない」というのは、食べる間もなく寝る間もなく働いているわたしの、せっかくの休日なのだから、ゆっくり食べゆっくり寝、休憩させてほしい、その時間は貴重なものだから奪わないでくれと、頼むよ、分かってくれ、という言葉です。それに対して、この女の人は「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と返します。
 人に対して犬と呼ぶのは蔑みの言葉になります。皮肉を込めて、わたしの貴重な休憩の時間を取るなと言ったのです。ところが彼女は、イエスが食べこぼしてしまったようなパン屑は頂いても構いませんよね、と食い下がります。つまり、確かにイエスは休暇のために来ているけれども、休日といっても分刻み秒刻みで休暇を過ごしているわけではないのです。ふとした時間のこぼれがあるはずなのです。だから、あなたの貴重な休暇の時間をあえて頂きたいとは思わない、だけれども、その貴重な時間からこぼれ出てしまうような時間があるでしょうから、その時間をくださいませんか、と機知に富んだことを言ったのです。そこで、イエスはハッとします。あ、そうか、この人のことを気が付かないところで蔑んでいた、自分を最優先する気持ちが早ってしまっていた。自分の休みからこぼれ落ちる時間があるということに気付かされるのです。
 イエスは、固定化されていた感覚が別の方向にズレて、この人の言っていることは尤もだ、この言葉には真があると気が付いたのです。田川建三訳では29節が次のようになっています。「そして彼女に言った、『その言葉の故に、行くがよい。娘さんから悪霊は出て行った』」。「その言葉の故に」と、つまりイエスに対して決して引き下がることなく対話していくことによってイエスとの距離が縮まる、心の内にお互いの何かしらの共鳴が起こって新しい事柄が起こりうるという可能性、それに対して開かれているということです。

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