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2013年9月 1日 (日)

マルコによる福音書 5章25~34節 「遠慮せずに助けを求める」

 この女性は12年間もの間、穢れている断罪され続けていました(レビ記15:25-31参照)。人前に出てはいけないという掟を破り、さらにはイエスがヤイロという人の娘の癒しに向かう途中を引き裂くようにして、やって来たのです。ばれたらどんな非難が待ち受けているか分かりません。しかし、この人なら治してくれるに違いないと、一縷の望みをかけて、今そおっと誰にも気づかれないようにしてイエスの服に触れたのです。
 するとたちまち病は癒されました。イエスは自分の内から力、エネルギーというか気のようなものが出て行ったことに気が付き、触った者は誰か、と問いかけます。震えながら進み出てありのままに語った女性にイエスは言われました「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」。このように娘よ、と親しげに語られたのです。イエスの引き起こす奇跡には、ただ単に病気を治す、その病を引き起こしていると考えられた霊とか悪霊を追い出すだけの働きではなくて、藁にもすがる切なる思いをもった人たちとの心の奥深くでの交わりがあります。何故イエスは奇跡による癒しの業を宣教の中心に据えていたのでしょうか。ここには疎外によって命の輝きを踏みにじる構造悪への怒りがあります。病を穢れた者として断定し罪ありと責め立てる当時の常識社会の根っこにある固定観念、その固定観念によってさらなる苦しみを負わせる社会的な構造悪を打ち破ることによって、解放を告げ知らせるイエスの使命があるのです。
 イエスその人も悪霊の働きによっている、と言われました。いわゆる「ベルゼブル論争」です(マルコ3:20-30)。律法の規定から解放されて、罪や冒涜が赦されると宣言するイエスがここにいます。その時々の神観念を相対化しながら、そこに本当に神の思いが満ちているのかを吟味しながらでないと過ちを犯す、この点を見据えていたのです。神は絶対です。しかし、神が絶対である、そのように口にする人間は絶対ではないのです。この自覚のないところに本来の罪が現れるのです。
 それぞれの時代の中での常識という神によって苦しみを幾重にも負わされる人たちが存在します。現代日本で言えば、イジメや生活保護バッシング、原発被災者の分断などの横行です。ここからの解放がイエスの振る舞いにおいて神の意志として立ち表わされているのです。ですから、人はイエスにあって、命を取り戻すためには何の遠慮もいらないし、常識とされる、その時々の正しさに囚われる必要のないことを確認しておきたいと思います。

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