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2013年8月11日 (日)

フィリピの信徒への手紙 4章4~7節 「主における喜び」 仲程剛

 フィリピの信徒がおかれた状況が、「喜び」とは程遠いものであったのにも関わらず、またパウロ自身が、監禁されて行動の自由を奪われ、生命の危険にさらされていたのにも関わらず、パウロは「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」と語っています。
 「喜び」と一口にいっても、私たちが感ずる喜びは様々あると思います。パウロがここに述べている「喜び」とは、何でしょうか?
 私たちは、日常生活の中でどれだけ「喜ぶ」ことを意識しているでしょうか?よりいいものを求める生活にどっぷりと浸かっている私たちは、日常のささいな喜びでさえも見失ってはいないでしょうか?
 大事なのは、「主において」という言葉です。
 それは、主を信じて喜ぶ、主を愛して喜ぶ、主に望みをおいて喜ぶ、ということ。しかも、意志をもって喜ぶことを指します。嬉しいことがあろうがなかろうが、例え困難な苦しい状況であろうが、主を信じているから、それゆえに喜ぶということです。ただ「主」が共にいて下さることこそ、「喜び」の根拠なのです。
 さらにパウロは、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」とも言われています。
 「思い煩うな」と言われても、私たちは、そんなに簡単にできるものではありません。
 しかし、聖書はすばらしい具体的な解決策を示してくださっています。
 それは、「感謝を込めて祈りと願いをささげなさい」ということです。実は、神様は、すでに私たちの願いを知っておられるのですから、改めて私たちが願いを告白する必要はありません。
 しかし、私たちは「祈りと願い」ささげることによって、私たちの「思い煩い」を「神が知っていてくださる」ということを確信することができるのです。
 「主において」、言い換えると「主が共にいて下さる」のだから、私たちの思い煩っていることは、もうすでに全て解決されているのです。だから思い煩う必要がないのです。
 私たちの信仰を、主において喜ぶ者、常に喜ぶ者となることで、強めてみませんか?

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