イザヤ書 35章1~2節 「平和を求める祈り」
シリア・パレスチナは絶えず戦火の中にあります。その中で土地は荒れ、人の心も荒んでくる、そのような状況のただ中にあって経験してきた苦悩、それをあえて1節と2節で語られているところの、第一イザヤの魂を継承した無名の預言者は、あえて絶望の中において希望を謳います。戦火に荒れたただ中にあって平和を求める祈りとして今日の聖書は読まれるべきです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。(35:1-2)」
この言葉は、そのような、極端に言うと死体がゴロゴロと転がっているような、そのような景色を見ながら、もう戦はいらない、平和をこそ求める、そこにこそ神の思いがあるのだという、だからあえて「主の栄光と我らの神の輝きを見る」という幻を、ここでは祈りとして語られているのです。わたしたちの住むこの国では今、荒れ果てた土地を見た経験をもたない世代の保守的な政治家たちが非常に極端な論を最近立て、目立っています。国土が荒れている、人々の心の荒んでいる状況の記憶をもたない政治家たちが非常に乱暴な国の方向へともっていこうとするただ中にあって、キリスト教会は平和への祈りを新たにしなければいけないと思っています。
この現代日本にあって、沖縄においてオスプレイが追加配備される、ということなどを通しながら、さらなる沖縄に対する軍事的な政策が強行されている、その中にあって希望を持つことが困難な暗い時代に生きています。しかし、天地創造神話の証言に従うならば、神はこの世を創られて「よし」とされた。そして、人間はその世界に対して仕えていくように、治めるとか支配という言葉が使われていますが、仕えていくようにとの責任が与えられているのです。そのような意味において教会は、主イエスの「平和を実現する人々は幸いである」という言葉への信頼において、イザヤ書で語られている、平和への祈りを今のこととして何度でも何度でも祈り続けていくようにとの促しが今日の聖書を語るところであろうと思います。
カントは「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課せられた使命である」と語っています。
教会は、主イエス・キリストが生きられたように、その背中を見つめて歩んでいく責任があります。それは今日平和聖日ということを覚えながら、永遠平和を祈り求め続ける、その促しのただ中に、わたしたちは巻き込まれてしまっているのだと自覚するところから、新しい一歩を始めていけばよいのです。
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