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2013年8月

2013年8月25日 (日)

マルコによる福音書 12章41~44節 「角度を変えてみると」 

 今日の聖書は伝統的な解釈では仏教でいうところの「貧者の一灯」だと考えられています。たとえわずかでも、心のこもった行為こそ尊いということのたとえです。しかし、今日はこのような定説となっている解釈から角度を変えて読み解いてみたいと思います。
 テキストからはこのやもめが「生活費を全部入れた」ことを褒めているとは読めません。が、何かしらの感情が、その言葉の背後にあることは確かです。富むものがより富を得るような仕組み、同時にこのような貧しいものが全財産を自らの意志で投げ込んで、さらに貧しくなるような神殿の体制・仕組みへの怒りや、そのように教育を強いる律法学者たちへの怒りに満ちていたのかもしれません。しかし、今日のテキストを読む限り、そのような主イエスの怒りは表面に出てきているようには思われません。
 この状況が、エルサレムに入り、十字架が直前に迫っている文脈であることに注目したいと思います。「はっきり(元の言葉ではアーメン)・言っておく」とは、この不平等な社会を神の国に向かって変革すべく自らをささげる御子の使命としての決断ではないでしょうか。「そうなのだ(アーメン)」と。そして、すべてをささげるやもめの姿は主イエスへの応援の行為となったのではないでしょうか。
 やもめの全財産に象徴されるのは、主イエス・キリストのささげる行為に対する応答、信じる者の喜んでなされる、自由なささげものです。この物語の読み手であるわたしたちは、すべてをささげる主イエス・キリストに対する相応しさを自らに対して問い返すことを求められているのではないでしょうか。
 そのためには、まず主イエス・キリストの生涯に目を注ぐことです。あの時はどうであったか、主イエスの言葉、立ち居振る舞い、社会からつまはじきにされている弱い者に対して目を注がれたこと、野の花、空のカラスである庶民の暮らしを楽観的に捉えること。そうした中で、わたしたちなりの主イエスに対する、それぞれの応答の仕方が見えてくるのではないでしょうか。具体的な奉仕、献金、祈り、様々です。しかし、義務ではありません。感謝と喜びがなければ、あの神殿体制と同質になってしまいます。格差社会に対する、主イエスの悲しみを感じ取り、主イエスが、すべての人が喜んで生きることのできる社会への道筋を備えてくださったことを受け入れるならば、わたしたちは喜んで応答することができるのです。ただささげものである主イエスに応えていくことを模索し続け、実践していくことです。この点にそれぞれが忠実なものとして整えられたく願います。

2013年8月18日 (日)

マルコによる福音書 10章17~22節 「自己相対化できるのか」

 人にはそれぞれ、キリストに従うことを妨げるものがあります。そして、それらは、この世的な魅力があるものです。わたしたち自身、何が妨げになっているものか、すぐにそれと気付くものではないかもしれません。社会的に評価されるようなことが実は妨げになっている、ということもあるかもしれません。そして、そのような妨げから完全に解放されることは、非常に困難でしょう。わたしたちの努力では全く不可能と言っていいかも知れません。
 今日の聖書で、「どうしたら永遠の命が得られるか」と問う律法を順守していると自負する金持ちの男に、「あなたに欠けているものがある」と主イエスは語ります。財産をすべて施せ、と。この後イエスは、弟子たちに25節で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言います。それでは誰が救われるのだろうか、と弟子たちが言うのももっともです。財産は神の祝福だという当時の常識を共有しているからです。ここで、問題は、金持ちのこの人に特化された問題から解体され、弟子たちに広げられ、さらには、わたしたちに向かう言葉へと変化してきます。
 ここで大事なのは、「財産=祝福」であっても、「財産を手放す=祝福を手放す」ということではない、ということです。いつの間にか「財産=祝福=正しい自分」となってしまった図式を崩すことです。言いかえれば、自己相対化するということです。「正しい」と信じ基準としてきたことを手放せるか、ということです。そこで、主イエスの語る27節の言葉への信頼が求められてくるのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」、という。わたしたちにとって、この信仰に依り頼むことが大切なのです。
 永遠の命というのは、人間の努力の延長線上にあるのではありません。むしろ、わたしたちには決してできないという認識が必要であり、重要です。人間にできることではないが神にはできる、という信仰が大切です。そしてそのような信仰を持つこと、すべて神に委ねることが、天に富を積むことなのです。神に委ねるとは、主イエスの招きにあって自己相対化へと促されることから一切が始まることを信じることです。自分のもっている価値観や人生観などを一旦、自分の外に置き、自分の<いのち>を見つめてみるところから初めて気付く世界観のことです。
 わたしたちも、自分自身に頼ることを捨て、自分にまとわりついている信仰を妨げるものを捨てて、主にすべてを委ねるものでありたいと思います。

2013年8月11日 (日)

フィリピの信徒への手紙 4章4~7節 「主における喜び」 仲程剛

 フィリピの信徒がおかれた状況が、「喜び」とは程遠いものであったのにも関わらず、またパウロ自身が、監禁されて行動の自由を奪われ、生命の危険にさらされていたのにも関わらず、パウロは「あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」と語っています。
 「喜び」と一口にいっても、私たちが感ずる喜びは様々あると思います。パウロがここに述べている「喜び」とは、何でしょうか?
 私たちは、日常生活の中でどれだけ「喜ぶ」ことを意識しているでしょうか?よりいいものを求める生活にどっぷりと浸かっている私たちは、日常のささいな喜びでさえも見失ってはいないでしょうか?
 大事なのは、「主において」という言葉です。
 それは、主を信じて喜ぶ、主を愛して喜ぶ、主に望みをおいて喜ぶ、ということ。しかも、意志をもって喜ぶことを指します。嬉しいことがあろうがなかろうが、例え困難な苦しい状況であろうが、主を信じているから、それゆえに喜ぶということです。ただ「主」が共にいて下さることこそ、「喜び」の根拠なのです。
 さらにパウロは、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」とも言われています。
 「思い煩うな」と言われても、私たちは、そんなに簡単にできるものではありません。
 しかし、聖書はすばらしい具体的な解決策を示してくださっています。
 それは、「感謝を込めて祈りと願いをささげなさい」ということです。実は、神様は、すでに私たちの願いを知っておられるのですから、改めて私たちが願いを告白する必要はありません。
 しかし、私たちは「祈りと願い」ささげることによって、私たちの「思い煩い」を「神が知っていてくださる」ということを確信することができるのです。
 「主において」、言い換えると「主が共にいて下さる」のだから、私たちの思い煩っていることは、もうすでに全て解決されているのです。だから思い煩う必要がないのです。
 私たちの信仰を、主において喜ぶ者、常に喜ぶ者となることで、強めてみませんか?

2013年8月 4日 (日)

イザヤ書 35章1~2節 「平和を求める祈り」

 シリア・パレスチナは絶えず戦火の中にあります。その中で土地は荒れ、人の心も荒んでくる、そのような状況のただ中にあって経験してきた苦悩、それをあえて1節と2節で語られているところの、第一イザヤの魂を継承した無名の預言者は、あえて絶望の中において希望を謳います。戦火に荒れたただ中にあって平和を求める祈りとして今日の聖書は読まれるべきです。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。(35:1-2)」
 この言葉は、そのような、極端に言うと死体がゴロゴロと転がっているような、そのような景色を見ながら、もう戦はいらない、平和をこそ求める、そこにこそ神の思いがあるのだという、だからあえて「主の栄光と我らの神の輝きを見る」という幻を、ここでは祈りとして語られているのです。わたしたちの住むこの国では今、荒れ果てた土地を見た経験をもたない世代の保守的な政治家たちが非常に極端な論を最近立て、目立っています。国土が荒れている、人々の心の荒んでいる状況の記憶をもたない政治家たちが非常に乱暴な国の方向へともっていこうとするただ中にあって、キリスト教会は平和への祈りを新たにしなければいけないと思っています。
 この現代日本にあって、沖縄においてオスプレイが追加配備される、ということなどを通しながら、さらなる沖縄に対する軍事的な政策が強行されている、その中にあって希望を持つことが困難な暗い時代に生きています。しかし、天地創造神話の証言に従うならば、神はこの世を創られて「よし」とされた。そして、人間はその世界に対して仕えていくように、治めるとか支配という言葉が使われていますが、仕えていくようにとの責任が与えられているのです。そのような意味において教会は、主イエスの「平和を実現する人々は幸いである」という言葉への信頼において、イザヤ書で語られている、平和への祈りを今のこととして何度でも何度でも祈り続けていくようにとの促しが今日の聖書を語るところであろうと思います。
 カントは「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課せられた使命である」と語っています。
 教会は、主イエス・キリストが生きられたように、その背中を見つめて歩んでいく責任があります。それは今日平和聖日ということを覚えながら、永遠平和を祈り求め続ける、その促しのただ中に、わたしたちは巻き込まれてしまっているのだと自覚するところから、新しい一歩を始めていけばよいのです。

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