マルコによる福音書 12章41~44節 「角度を変えてみると」
今日の聖書は伝統的な解釈では仏教でいうところの「貧者の一灯」だと考えられています。たとえわずかでも、心のこもった行為こそ尊いということのたとえです。しかし、今日はこのような定説となっている解釈から角度を変えて読み解いてみたいと思います。
テキストからはこのやもめが「生活費を全部入れた」ことを褒めているとは読めません。が、何かしらの感情が、その言葉の背後にあることは確かです。富むものがより富を得るような仕組み、同時にこのような貧しいものが全財産を自らの意志で投げ込んで、さらに貧しくなるような神殿の体制・仕組みへの怒りや、そのように教育を強いる律法学者たちへの怒りに満ちていたのかもしれません。しかし、今日のテキストを読む限り、そのような主イエスの怒りは表面に出てきているようには思われません。
この状況が、エルサレムに入り、十字架が直前に迫っている文脈であることに注目したいと思います。「はっきり(元の言葉ではアーメン)・言っておく」とは、この不平等な社会を神の国に向かって変革すべく自らをささげる御子の使命としての決断ではないでしょうか。「そうなのだ(アーメン)」と。そして、すべてをささげるやもめの姿は主イエスへの応援の行為となったのではないでしょうか。
やもめの全財産に象徴されるのは、主イエス・キリストのささげる行為に対する応答、信じる者の喜んでなされる、自由なささげものです。この物語の読み手であるわたしたちは、すべてをささげる主イエス・キリストに対する相応しさを自らに対して問い返すことを求められているのではないでしょうか。
そのためには、まず主イエス・キリストの生涯に目を注ぐことです。あの時はどうであったか、主イエスの言葉、立ち居振る舞い、社会からつまはじきにされている弱い者に対して目を注がれたこと、野の花、空のカラスである庶民の暮らしを楽観的に捉えること。そうした中で、わたしたちなりの主イエスに対する、それぞれの応答の仕方が見えてくるのではないでしょうか。具体的な奉仕、献金、祈り、様々です。しかし、義務ではありません。感謝と喜びがなければ、あの神殿体制と同質になってしまいます。格差社会に対する、主イエスの悲しみを感じ取り、主イエスが、すべての人が喜んで生きることのできる社会への道筋を備えてくださったことを受け入れるならば、わたしたちは喜んで応答することができるのです。ただささげものである主イエスに応えていくことを模索し続け、実践していくことです。この点にそれぞれが忠実なものとして整えられたく願います。
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