マルコによる福音書 10章17~22節 「自己相対化できるのか」
人にはそれぞれ、キリストに従うことを妨げるものがあります。そして、それらは、この世的な魅力があるものです。わたしたち自身、何が妨げになっているものか、すぐにそれと気付くものではないかもしれません。社会的に評価されるようなことが実は妨げになっている、ということもあるかもしれません。そして、そのような妨げから完全に解放されることは、非常に困難でしょう。わたしたちの努力では全く不可能と言っていいかも知れません。
今日の聖書で、「どうしたら永遠の命が得られるか」と問う律法を順守していると自負する金持ちの男に、「あなたに欠けているものがある」と主イエスは語ります。財産をすべて施せ、と。この後イエスは、弟子たちに25節で、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言います。それでは誰が救われるのだろうか、と弟子たちが言うのももっともです。財産は神の祝福だという当時の常識を共有しているからです。ここで、問題は、金持ちのこの人に特化された問題から解体され、弟子たちに広げられ、さらには、わたしたちに向かう言葉へと変化してきます。
ここで大事なのは、「財産=祝福」であっても、「財産を手放す=祝福を手放す」ということではない、ということです。いつの間にか「財産=祝福=正しい自分」となってしまった図式を崩すことです。言いかえれば、自己相対化するということです。「正しい」と信じ基準としてきたことを手放せるか、ということです。そこで、主イエスの語る27節の言葉への信頼が求められてくるのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」、という。わたしたちにとって、この信仰に依り頼むことが大切なのです。
永遠の命というのは、人間の努力の延長線上にあるのではありません。むしろ、わたしたちには決してできないという認識が必要であり、重要です。人間にできることではないが神にはできる、という信仰が大切です。そしてそのような信仰を持つこと、すべて神に委ねることが、天に富を積むことなのです。神に委ねるとは、主イエスの招きにあって自己相対化へと促されることから一切が始まることを信じることです。自分のもっている価値観や人生観などを一旦、自分の外に置き、自分の<いのち>を見つめてみるところから初めて気付く世界観のことです。
わたしたちも、自分自身に頼ることを捨て、自分にまとわりついている信仰を妨げるものを捨てて、主にすべてを委ねるものでありたいと思います。
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