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2013年7月 7日 (日)

マルコによる福音書 1章21~28節 「イエスの権威」 

 主イエスは、神の支配の近づきの自覚のもと、仕事中の4人の漁師を湖のほとりで奇跡によって捕まえ、活動を開始しました。活動初期は、ガリラヤ湖北側の町カファルナウムのユダヤの会堂での教えを常にしていたといいます。しかし、自らの正当性から始めて演説する律法学者たちのような説教スタイルではなかったようです。人々が驚いたのは、イエスその人からの気迫を感じ取ったのでしょうか。「権威ある者のように」教えた、またその教えが「権威ある新しい教え」だというのです。聖書の記述に従えば、この教えの内容は穢れた霊を追い出すことです。奇跡とは、その可能性の欠片もないことが、まさに信じられないこととして起こるので奇跡なのです。つまり、かのローマやユダヤの権威が無効とされる、その振る舞いが、神の国の近づき、神の思いの充満、これらを引き起こす出来事が奇跡なのでした。
 マルコ10:42‐45「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」における主イエスの言葉は「権威」を相対化しうる視座を示しています。仕えるということ、ここに主イエスの権威があるということです。この仕えていく姿勢、それは、人を生かし、お互いに生かしあっていく道。一人の生命全体を喜びとし、喜び合える関係の創出に教会の課題があるということです。
 わたしたちも今、重たく強いる力、人々を一つの価値観に統合させようとする力に抗い、自由に考え発想する力、現実を別の見方で眺める力、現代における権威を相対化する力を身につける必要があります。権威に寄り掛かる仕方ではなく、この世の価値観でない、神から与えられ照らされることによって明らかにされる世界観を、イエスは自らの権威において語ることから浮かび上がらせたのです。当時の価値観においては罪ある者、汚れた者と判断する基準を打ち壊したことから学ぶべき事柄は今日の課題でもあります。この世を旅する教会の社会的責任の根拠をどこに置くのかということです。
 汚れた霊を追い出す行為は、病を治すということだけを示すものではありません。病そのものを見つめ、対面し、価値観を相対化させることによって別の物語をわたしたちに提示します。ただ一回的なことではなくて、絶えず新しい可能性として主イエスを用意し続けてくださるという信頼においてなされていくはずです。主の思いが、この場におよび「権威ある新しい教え」が今日も回復されていることを信じ、祈りつつ歩みましょう。

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