マタイによる福音書 7章24~29節 「岩の上に」
今日の物語は「家と土台」という小見出しが付いていますが、賢い人と愚かな人が類比されていて、賢い人というのは、岩の上に自分の家を建てる、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:25)。愚かな人は砂の上に家を建てる。砂のようなサラサラしているところ、弱くなっているところに家を建てても崩れてしまうけれども、岩の上に建てていれば大丈夫、という話です。
これは、たとえ話です。なので、言わんとすることは何か、を考えるように、読む人聞く人は求められています。
イエス・キリストが語る話を聞いている人は、イエス・キリストが話してくださっていることにおいて、実はその岩である土台、頑丈なものによって、もうすでに守られてしまっているのです。岩である土台と言うものが何か、気が付いている人はイエス・キリストに信じて従おうとして洗礼を受けることがあるかもしれないし、まだ気が付かない人がいるかもしれないけれど、しっかりした土台、何事にも揺らぐことのない命の源、その根っこのところが、一人ひとりにはもう備えられてしまっている、ということを今日の聖書は語ろうとしています。
わたしたち一人ひとりが気付いているか気付いていないか、そんなことは関係ない。気付く前にすでにイエス・キリストご自身が、一人ひとりの心の中にしっかりとした岩として住んでいてくださる、だからどんな困難なことがあっても大丈夫だ、安心なんだ、なぜならばわたしたちがどんなに弱い存在であったとしても、イエス・キリストご自身が支える土台であり岩である、だから、その方に従っていけば、どんなことがあっても大丈夫だということです。
パウロは三回に亘って地中海沿岸を含む地域で、イエスという方は素晴らしい方なんだ、勇気と知恵と命の源、勇気づけて励まして元気づけてくれる、そんな方なんだ、信じようということを伝え歩きました。色んな困難がありました(Ⅱコリント11:23-28参照)。でも、挫けることができなかった。何故かというと、心の一番奥にはイエス・キリストという方がいらして支えてくれているんだ、守っていてくれるんだ、そう思っていたからです。
わたしもイエス・キリストを信じるようになってから色々なことがありました。けれど、特にマタイによる福音書の5章から7章を読むと、イエス・キリストがどんなに力強い方なのかが分かります。実は自分が弱いと思っていても、その弱さの中にいつも支えてくれる土台であるイエス・キリストの言葉がある。だから信じて従っていこう、そうすればどんなことがあっても大丈夫だし、安心なのだ、と。
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