マタイによる福音書 6章25~34節 「今を生きる」
「野の花」とは、捨てられて当然、という雑草と読むのがいいようです。「野の花」は働きもせず、紡ぎもしない、つまり、労働の内容が、当時の女の働きで描かれています。空の鳥は、「種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」とあります。これは、当時の男の労働が前提とされています。男も女も、働くという目的や労働の中身によって、今ある生命も身体も意味が与えられるのではない。もうすでに、何もしなくても、祝福されてしまっているのだという、非常に楽観的な主イエスの感覚が読み取れます。だから、すでにあなた方の生命、身体は祝福されてしまっているのだから、何も心配する必要はないというのです。生命に対する底抜けの肯定であるかのようです。気楽な物言いではありません。すでに、いずれ来るところの十字架への道を見据えているからです。それにもかかわらず、ではなくて、だからこそ、この楽観性を忘れてはならない、そう思います。思い悩んだ一人の男の物語がルカによる福音書12:13-21には語られています。「さあ、これから先何年も生きていくだけの貯えが出来たぞ」と喜んだのも束の間、彼の命は取り上げられてしまったのです。命というものは、実は自分ではどうにもできない神の領域に属していることを忘れてしまうと、かの愚かな金持ちの悲劇に陥ります(さらにはマタイ6:24、6:19-21も参照)。
神に委ねていく生き方とこの世の富にまつわる「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という生き方から人間は自由でない現実があることを知らされます。
このような現実に対して主イエスキリストは、思い悩む必要は、すでに取り除けられていると宣言しているのです。今、生命が与えられていることは、「空の鳥、野の花」と同様、すでにその生命が祝福され、そのありようが主の目から見れば美しいと宣言なさっているのです。 今日を生きることが神への責任ある応答であることが「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6:34)という言葉において示されています。一切の苦労がなくなるわけではありません。今日という日に与えられた苦労は負わねばならないのです。しかし、明日や将来において負わなければならない苦労を今のことにする必要はないのです。今日を生き抜くことにこそ、将来への責任と可能性が約束されていくのだという、主イエスの楽観主義に学ぶ必要があるのではないでしょうか。
今、生きているということ、今、生かされているということ、この楽観的な生命への理解から、わたしたちのはじめの一歩は導かれていくのではないか。このままのわたしたちがが、今、神から祝福されているのです。
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