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2013年6月

2013年6月30日 (日)

マルコによる福音書 2章1~12節 「友だちの信」

 友だちって、いいものです。4人の行動は非常に乱暴なことだけれども、友だちを何とかしてあげたい、助けたい、そうすることに賭けた、その思いを主イエスは、きっちりと受け止めたのです。後々のことを考えないで、今この人が苦しんでいる、なんとかしたい、その姿を主イエス・キリストは、良しとされたのです。実は、友だち(家族も含め)を思うということによって、わたしたちはかろうじて、辛いことがあっても悩ましいことがあっても、様々な病がやってきたとしても何とか生きていけるのです。わたしを覚えていてくれる、行動してくれる、祈ってくれる、そういう友の背後にはイエス・キリストご自身がおられる。そういう友を思い浮かべられなくても、主イエスが友としてある。思う相手としての友がなければ、誰かの背後にイエス・キリストを探せばいい。そのために主イエス・キリストは受肉という仕方で人間の友となる道を自ら選んで、この世に来られたわけです。
 今日の聖書の癒しの現場にいた人々は、「このようなことは見たことがないと言って神を賛美した」とあります。一人の人が癒され、元気にされていくということが、4人の友だちの中での喜びに閉じられていくのではなくて、その4人をはるかに超えたカファルナウムの町に向かって広がり、町の人たちが「神を賛美した」となるのです。一方では「冒涜だ」と言う勢力もあるのですが、イエス・キリストがなさったことは、確かにパレスチナの片隅で起こった出来事なのだけれども、今や4人の友だちをもはるかに超えて、人々に波及していくということを今日の聖書は告げています。
 その波及していく言葉の力がこの2000年を超えて今もなお、わたしたちのところに届けられているし、それがまた確かなのだと、わたしたちは今、自分の友たちの顔を思い浮かべながら実感します。今ある友だちの背後で支えておられるところのイエス・キリストの神を思います。そしてその祝福されているところの、喜ばれているところの背後にも多くの人たちがいると思うのです。
 イエス・キリストの神は、この4人を祝福し、何とかしたいというあり方に信仰を見る。情熱や熱意はイエス・キリストを根拠とする。その力は、この町、場に広がっていく。さらには、ここで神を賛美した人たちが、また別のところに行って、誰かを元気づける、勇気づけるという仕方で友だちとなっていく。そういう道筋に、イエス・キリストの言葉に打たれたものは、その使命が与えられているということだと思います。それを堅い言葉で言えば「伝道」という言葉になりますが、そこで受けた驚きとか促しとか、を波及させていく、そういう神の力が、今日も、この場にあって、わたしたちを励まし導き続けておられるということを共々確認したいと願っています。

2013年6月23日 (日)

マタイによる福音書 7章24~29節 「岩の上に」

 今日の物語は「家と土台」という小見出しが付いていますが、賢い人と愚かな人が類比されていて、賢い人というのは、岩の上に自分の家を建てる、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(7:25)。愚かな人は砂の上に家を建てる。砂のようなサラサラしているところ、弱くなっているところに家を建てても崩れてしまうけれども、岩の上に建てていれば大丈夫、という話です。
 これは、たとえ話です。なので、言わんとすることは何か、を考えるように、読む人聞く人は求められています。
 イエス・キリストが語る話を聞いている人は、イエス・キリストが話してくださっていることにおいて、実はその岩である土台、頑丈なものによって、もうすでに守られてしまっているのです。岩である土台と言うものが何か、気が付いている人はイエス・キリストに信じて従おうとして洗礼を受けることがあるかもしれないし、まだ気が付かない人がいるかもしれないけれど、しっかりした土台、何事にも揺らぐことのない命の源、その根っこのところが、一人ひとりにはもう備えられてしまっている、ということを今日の聖書は語ろうとしています。
 わたしたち一人ひとりが気付いているか気付いていないか、そんなことは関係ない。気付く前にすでにイエス・キリストご自身が、一人ひとりの心の中にしっかりとした岩として住んでいてくださる、だからどんな困難なことがあっても大丈夫だ、安心なんだ、なぜならばわたしたちがどんなに弱い存在であったとしても、イエス・キリストご自身が支える土台であり岩である、だから、その方に従っていけば、どんなことがあっても大丈夫だということです。
 パウロは三回に亘って地中海沿岸を含む地域で、イエスという方は素晴らしい方なんだ、勇気と知恵と命の源、勇気づけて励まして元気づけてくれる、そんな方なんだ、信じようということを伝え歩きました。色んな困難がありました(Ⅱコリント11:23-28参照)。でも、挫けることができなかった。何故かというと、心の一番奥にはイエス・キリストという方がいらして支えてくれているんだ、守っていてくれるんだ、そう思っていたからです。
 わたしもイエス・キリストを信じるようになってから色々なことがありました。けれど、特にマタイによる福音書の5章から7章を読むと、イエス・キリストがどんなに力強い方なのかが分かります。実は自分が弱いと思っていても、その弱さの中にいつも支えてくれる土台であるイエス・キリストの言葉がある。だから信じて従っていこう、そうすればどんなことがあっても大丈夫だし、安心なのだ、と。

2013年6月16日 (日)

マタイによる福音書 6章25~34節 「今を生きる」

 「野の花」とは、捨てられて当然、という雑草と読むのがいいようです。「野の花」は働きもせず、紡ぎもしない、つまり、労働の内容が、当時の女の働きで描かれています。空の鳥は、「種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」とあります。これは、当時の男の労働が前提とされています。男も女も、働くという目的や労働の中身によって、今ある生命も身体も意味が与えられるのではない。もうすでに、何もしなくても、祝福されてしまっているのだという、非常に楽観的な主イエスの感覚が読み取れます。だから、すでにあなた方の生命、身体は祝福されてしまっているのだから、何も心配する必要はないというのです。生命に対する底抜けの肯定であるかのようです。気楽な物言いではありません。すでに、いずれ来るところの十字架への道を見据えているからです。それにもかかわらず、ではなくて、だからこそ、この楽観性を忘れてはならない、そう思います。思い悩んだ一人の男の物語がルカによる福音書12:13-21には語られています。「さあ、これから先何年も生きていくだけの貯えが出来たぞ」と喜んだのも束の間、彼の命は取り上げられてしまったのです。命というものは、実は自分ではどうにもできない神の領域に属していることを忘れてしまうと、かの愚かな金持ちの悲劇に陥ります(さらにはマタイ6:24、6:19-21も参照)。
 神に委ねていく生き方とこの世の富にまつわる「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」という生き方から人間は自由でない現実があることを知らされます。
 このような現実に対して主イエスキリストは、思い悩む必要は、すでに取り除けられていると宣言しているのです。今、生命が与えられていることは、「空の鳥、野の花」と同様、すでにその生命が祝福され、そのありようが主の目から見れば美しいと宣言なさっているのです。 今日を生きることが神への責任ある応答であることが「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6:34)という言葉において示されています。一切の苦労がなくなるわけではありません。今日という日に与えられた苦労は負わねばならないのです。しかし、明日や将来において負わなければならない苦労を今のことにする必要はないのです。今日を生き抜くことにこそ、将来への責任と可能性が約束されていくのだという、主イエスの楽観主義に学ぶ必要があるのではないでしょうか。
 今、生きているということ、今、生かされているということ、この楽観的な生命への理解から、わたしたちのはじめの一歩は導かれていくのではないか。このままのわたしたちがが、今、神から祝福されているのです。

2013年6月 9日 (日)

使徒言行録 3章1~10節 「元気をくださるイエスさま」

花の日・子どもの日(子どもとおとなとの合同礼拝)
 リレーでバトンやタスキを渡します。教会の二千年の歴史も、ちょっと似ているところがあります。バトンとかタスキに当たる物は、目に見えないけれどもイエス様が与えてくれる十字架からの復活の力、元気の素、勇気の素です。それを次から次へと渡していくのです。
 ペトロとヨハネはイエス様のことをもっと知ってもらいたいと思って、神殿に行きました。ちょうどお祈りの時間でした。エルサレムの神殿にはいくつもの門があり、その中に「うつくしい門」と呼ばれるものがあったようです。そこに生まれつき歩けない人がいました。誰かが運んで連れてきたのでしょう。そこで施しを受けて、生計を立てるのです。たぶんその人を運ぶ人も分け前にあずかっていたのだと思います。ペトロとヨハネが来ると、その人はどうぞ施しをくださいと言いました。ペトロは言います。お金は持ってないが、持っているものをあげよう。それは「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」との言葉です。この言葉はバトンやタスキの働きをもっているのです。十字架から復活したイエス様の力によって勇気が与えられるのです。イエス・キリストという言葉には力があるのです。イエスは名前ですが、キリストとは名字ではありません。救い主という意味です。神様の遣わした子ども、人々を幸せにする、勇気づける、元気づける、そういう救い主がキリストです。
 イエス・キリストという言葉が語られる時には力が働きます。イエス様に導かれた人がイエス様を信じるようになって、そして信じた人が語る言葉は、イエス様から借りている力を伝えることができるようになります。ペトロはイエス様が逮捕された時は一番最初に逃げてしまったのですが、復活のキリストに出会って、今はイエス様の力によって勇気と元気を分け与えることができるようになった、ということです。
 イエス様の心として用意されたバトン、タスキがペトロとヨハネに与えられた。だから、困っている人に対して、イエス様の真似をしていけばきっと、どんなことがあっても大丈夫だし、喜んで生きていくことができる。困っていることがあっても、それを喜びに変えていく知恵と希望が与えられるよ、だから安心だよ、大丈夫だよ、という言葉を語ることができたし、その人は受けることができた。きっとここで治されて元気になった人も、イエス・キリストという名前によってわたしはこんなにも嬉しく生きることができると、今度は他の人に伝えたかもしれない。そのようにして、二千年ずっとイエス様の言葉が多くの人たちによって手渡されてきた歴史の中に、わたしたちは生かされてしまっているのです。

2013年6月 2日 (日)

マタイによる福音書 5章38~48節 「虫の視点、鳥の視点」

 「敵を愛し」とは、庶民が生き残っていく知恵の言葉です。大局的には世界的な規模での憎しみ、憎悪の連鎖、それが大きくある。そして身近なところで親しい者、近所づきあいの中でも憎しみのようなものがある。愛とは対極の世界観の中でわたしたちは暮らしています。その中で何とかして生き残る知恵を、という時に「敵を愛す」という言葉によって切り開こうとしているのだと思います。「愛す」という言葉は、実は理解しにくい言葉ですが、本田哲郎神父は平たく「大切にする」と訳しています。
 わたしたちは、多かれ少なかれ、他者との間に利害関係があり、暴力的な行為や暴力的な言葉がそこに介しているかもしれません。その関係のありようを大局的な鳥の視点をもつことで乗り越えよう、ごく身近な関係のありようとしての虫の視点で生活しながら、時には鳥の視点に移すことで、敵を大切にしていくための解決の糸口が見つかるはずだ、という理解です。
 「平行線は交わる」と説く数学者の説がいます。この人は元々神学を学んだあとで数学者になった人です。数学的なものの考え方では、平行線は絶対に交わりません。神学的な、つまり神の側からのイマジネーションが与えられると交わるのです。丸い地球の中心を軸にして平行線を引いていくと、いつかどこかで交わる。そういう発想の転換というのが「敵を愛す/大切にする」ということです。このような視点に立てば、困難な問題も解決していく可能性に拓かれるのです。
 「神奈川教区形成基本方針」の本文には「自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって合意と一致とを目指すことができると信じる」とあります。このようなありかたが「敵を愛し」ということです。ここで謳われている内容は、なかなか困難な問題です。しかし、自分の立場を相対化(=鳥の視点)できるようにという祈りが、合意と一致とを目指す(=平行線が交わる)ことを導くと信じるのです。
 そうした時に、わたしたちは大局的な世界的な広がりの中で、地域的な活動をしていくことができる。その中でもって初めて「平和を実現する者たちは幸い」という言葉に生きる教会にされていくだろうと思います。
 「隣人を愛して敵を憎め」とは、律法には明文化されていませんが、この世の共同体理解の本音です。しかし、イエス・キリストの目指すところは「敵を愛し」敵を大切にすることです。自分自身を相対化する中で新しい世界が拓けて来る、そのような出来事が確かであることを教会は信じているので、この厳しい時代のただ中にあっても絶望することができないのです。十字架上の主イエスが見ていてくださるのだから。

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