マタイによる福音書 5章38~48節 「虫の視点、鳥の視点」
「敵を愛し」とは、庶民が生き残っていく知恵の言葉です。大局的には世界的な規模での憎しみ、憎悪の連鎖、それが大きくある。そして身近なところで親しい者、近所づきあいの中でも憎しみのようなものがある。愛とは対極の世界観の中でわたしたちは暮らしています。その中で何とかして生き残る知恵を、という時に「敵を愛す」という言葉によって切り開こうとしているのだと思います。「愛す」という言葉は、実は理解しにくい言葉ですが、本田哲郎神父は平たく「大切にする」と訳しています。
わたしたちは、多かれ少なかれ、他者との間に利害関係があり、暴力的な行為や暴力的な言葉がそこに介しているかもしれません。その関係のありようを大局的な鳥の視点をもつことで乗り越えよう、ごく身近な関係のありようとしての虫の視点で生活しながら、時には鳥の視点に移すことで、敵を大切にしていくための解決の糸口が見つかるはずだ、という理解です。
「平行線は交わる」と説く数学者の説がいます。この人は元々神学を学んだあとで数学者になった人です。数学的なものの考え方では、平行線は絶対に交わりません。神学的な、つまり神の側からのイマジネーションが与えられると交わるのです。丸い地球の中心を軸にして平行線を引いていくと、いつかどこかで交わる。そういう発想の転換というのが「敵を愛す/大切にする」ということです。このような視点に立てば、困難な問題も解決していく可能性に拓かれるのです。
「神奈川教区形成基本方針」の本文には「自分の立場を相対化できるよう神の助けを求めることによって合意と一致とを目指すことができると信じる」とあります。このようなありかたが「敵を愛し」ということです。ここで謳われている内容は、なかなか困難な問題です。しかし、自分の立場を相対化(=鳥の視点)できるようにという祈りが、合意と一致とを目指す(=平行線が交わる)ことを導くと信じるのです。
そうした時に、わたしたちは大局的な世界的な広がりの中で、地域的な活動をしていくことができる。その中でもって初めて「平和を実現する者たちは幸い」という言葉に生きる教会にされていくだろうと思います。
「隣人を愛して敵を憎め」とは、律法には明文化されていませんが、この世の共同体理解の本音です。しかし、イエス・キリストの目指すところは「敵を愛し」敵を大切にすることです。自分自身を相対化する中で新しい世界が拓けて来る、そのような出来事が確かであることを教会は信じているので、この厳しい時代のただ中にあっても絶望することができないのです。十字架上の主イエスが見ていてくださるのだから。
« マタイによる福音書 5章1~12節 「幸せですか?」 | トップページ | 使徒言行録 3章1~10節 「元気をくださるイエスさま」 »
「マタイによる福音書」カテゴリの記事
- マタイによる福音書 16章18~20節 「心を一つにして求めるなら」 原 直呼(2024.08.25)
- マタイによる福音書 6章34節 「主イエスにある楽天性」(2024.03.10)
- マタイによる福音書 7章13~14節 「狭い門」(2024.03.03)
- マタイによる福音書 25章31~40節 「小さい者の一人に」(2023.11.26)
- マタイによる福音書 28章20節 「イエスさまと一緒に」(2023.11.12)
« マタイによる福音書 5章1~12節 「幸せですか?」 | トップページ | 使徒言行録 3章1~10節 「元気をくださるイエスさま」 »
コメント