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2013年5月 5日 (日)

マルコによる福音書 1章16~20節 「旅立ちの前に」

 今日の聖書が語るのは最初の弟子たち4人の招きです。今ここにいる、わたしたち一人ひとりに向かっても「わたしについてきないさい」と呼びかけておられるということです。わたしは奇跡物語として理解しています。主イエスが呼ばわったなら、ついていくのが当然という奇跡です。常に主体はイエス・キリストその方なのです。主イエスは招きの意味を一切提示していません。ただ、ついてきなさい、なのです。その人の付加価値の一切を問題にせず、まるごとの具体的な生命に向かって声をかけたのです。
 たまたまガリラヤ湖のほとりを主イエスは歩いている時に、二組の兄弟をそれぞれ「御覧に」とあります。ただ視界に入ってきたので見かけたというより、もっと強いニュアンスがここにはあります。その人たちの心の底、心の奥、醜い部分、やがて裏切るであろうことをも含めた、あるがままの存在全体を表す一人ひとりを真っ直ぐに見つめた、という感じです。いわば、イエスに声をかけられた一人ひとりは主イエスの眼差しの中に包まれるようにして、守りの確かさへと導かれるのです。
 わたしたちは、ひとたびイエス・キリストから声をかけられて、わたしに従いなさいという言葉を聞いてイエス・キリストに連なるものとされましたけれども、しばしば、そこから逸脱してしまうことがある。それでもなお、何度でも、「これに聞け」、わたしに従いなさいという言葉を、絶えずここに立ち返るように言われているのだと思います。わたしたちの限られた生涯には、様々な出来事が起こってきて、わたしたちはしばしば信じているという確信が揺らぐことがあります。しかし、イエス・キリストは、当然御承知の上で、わたしたち一人一人に声をかけているのです。主イエス・キリストの背中に向かって何度でも何度でも立ち返るようにです。それができる、大丈夫だと。今日、イエス・キリストの神は、真っ直ぐに心の底まで見透かした上で、わたしに従ってきなさいと語りかけておられるのです。
 信じて従うことは、人間の側からは決して作り出すことはできないのです。しばしば、信じて従うことができるという自作自演の信仰の危険は起こりうることです。それは、自分を神にするかのように思いあがってしまうことです。しかし、絶えず立ち返る道が用意されている、だから、あの日のガリラヤの海辺の招きを忘れないように、というのです。理想の自分と主の招きとの葛藤が生じることもあるでしょう。破れも生じることでしょう。しかし、絶えず先回りをする主の招きに身を委ねる新たな歩み、冒険に対して恐れない者でありたいと願います。信じて従うことを拒むことができない恵みが襲いかかってきていることを受け入れるところに、受け皿としての信仰が備えられているのです。

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