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2013年5月

2013年5月26日 (日)

マタイによる福音書 5章1~12節 「幸せですか?」

 キリスト教的生における幸せ観は主観的なものではありません。神が共にいるということから支えられるのです。  山上の説教を正面から聞くなら戸惑うべきです。何故主イエスはこのように語らざるを得なかったのかと。「幸い」という説教を聞きながら、果たして本当にそうなのか、という問いを抱きながら、しかしそうなのだというところに導かれるのです。思考を麻痺させることなく、主イエスの言葉にとどまりながら考え続けていくことを怠ってはならないのです。  マタイによる福音書の中心的なテーマは神が共にいるということです。降誕物語での「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(1:23)から、復活のキリストの言葉「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)として一貫します。その要となるのが「命じておいたこと」の内容であるイエス・キリストの教えです。イエス・キリストが言葉として共にいるということ、ここにこそ幸せがあります。  
 ですから、わたしたちは「イエス・キリストの教えを守る」とは、「わたしたちにとって」何なのかをまず問わなければなりません。「悲しむ人々が慰められる」ために、わたしは今、何をなすべきなのか、何ができるのか。「義に飢え渇く人々が満たされる」ために、今、何をなすべきなのか、何ができるのか。具体的に。主イエスの「幸いである」という宣言を受け止めるならば、逆説的ですが、実現のためには歩み出さなくてはならないのです。  イエス・キリストの道を歩む者は「義のために迫害される」(5:10)、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」(5:11)事態がやってくるだろう。が、しかし、そのただ中にあってさえ「幸い」が用意されているとの宣言なのです。イエス・キリストが生きられた、その生き方に招かれているところにこそ、キリスト者にとっての幸せが確実な約束として備えられているのです。この事実に信頼しつつ歩んでいきましょう。きっとそこには、キリストにある幸せが待ち受けているはずです。

2013年5月12日 (日)

エフェソの信徒への手紙 4章1~16節 「成長」

 この手紙の背景にあるのは、おそらく教会内における分裂です。とりわけ人種の問題です。「隔ての中垣」が問題になっています。おそらくユダヤ人と異邦人との間の諍いが教会内で起こっているということでしょう。そこで、パウロは勧めます。「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
 霊による一致というのは人間の側からのものではありません。まことの神は唯一であって、その神に治められているメンバーは、それぞれ与えられている恵みとしての賜物により応答していくのです。それぞれの役割が担われることによって教会という具体的なこの世における体が成長していくのだという、という促しが語られています。しかし、霊による一致は人間の側から作り出せると誤解して、教会を一つの色に塗りつぶしてしまうという方向性を持ちやすい誘惑があります。
 この世にあって教会は聖霊の力による「よそ者の共同体」です。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:20)。この立場からすると国家の諸権力を相対化しうる視座が与えられるのです。このメンバーがキリスト者です。この世の価値観に埋没していくのではなくて、本国である天の価値観に従うのです。当然、「国家」の枠組みから自由であります。教会内において民族を超えていくことへの促しは、国家間の価値観を超えて具体的な人々が真心から結ばれていく可能性を示しています。
 やがて来られる主イエスの到来に至るまでという、いわゆる「教会の時」という限られた時間の中を教会は旅をする。そこにおいてイエス・キリストの与える一致という約束の力によって教会は維持され成長していくのだということです。

2013年5月 5日 (日)

マルコによる福音書 1章16~20節 「旅立ちの前に」

 今日の聖書が語るのは最初の弟子たち4人の招きです。今ここにいる、わたしたち一人ひとりに向かっても「わたしについてきないさい」と呼びかけておられるということです。わたしは奇跡物語として理解しています。主イエスが呼ばわったなら、ついていくのが当然という奇跡です。常に主体はイエス・キリストその方なのです。主イエスは招きの意味を一切提示していません。ただ、ついてきなさい、なのです。その人の付加価値の一切を問題にせず、まるごとの具体的な生命に向かって声をかけたのです。
 たまたまガリラヤ湖のほとりを主イエスは歩いている時に、二組の兄弟をそれぞれ「御覧に」とあります。ただ視界に入ってきたので見かけたというより、もっと強いニュアンスがここにはあります。その人たちの心の底、心の奥、醜い部分、やがて裏切るであろうことをも含めた、あるがままの存在全体を表す一人ひとりを真っ直ぐに見つめた、という感じです。いわば、イエスに声をかけられた一人ひとりは主イエスの眼差しの中に包まれるようにして、守りの確かさへと導かれるのです。
 わたしたちは、ひとたびイエス・キリストから声をかけられて、わたしに従いなさいという言葉を聞いてイエス・キリストに連なるものとされましたけれども、しばしば、そこから逸脱してしまうことがある。それでもなお、何度でも、「これに聞け」、わたしに従いなさいという言葉を、絶えずここに立ち返るように言われているのだと思います。わたしたちの限られた生涯には、様々な出来事が起こってきて、わたしたちはしばしば信じているという確信が揺らぐことがあります。しかし、イエス・キリストは、当然御承知の上で、わたしたち一人一人に声をかけているのです。主イエス・キリストの背中に向かって何度でも何度でも立ち返るようにです。それができる、大丈夫だと。今日、イエス・キリストの神は、真っ直ぐに心の底まで見透かした上で、わたしに従ってきなさいと語りかけておられるのです。
 信じて従うことは、人間の側からは決して作り出すことはできないのです。しばしば、信じて従うことができるという自作自演の信仰の危険は起こりうることです。それは、自分を神にするかのように思いあがってしまうことです。しかし、絶えず立ち返る道が用意されている、だから、あの日のガリラヤの海辺の招きを忘れないように、というのです。理想の自分と主の招きとの葛藤が生じることもあるでしょう。破れも生じることでしょう。しかし、絶えず先回りをする主の招きに身を委ねる新たな歩み、冒険に対して恐れない者でありたいと願います。信じて従うことを拒むことができない恵みが襲いかかってきていることを受け入れるところに、受け皿としての信仰が備えられているのです。

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