マタイによる福音書 5章1~12節 「幸せですか?」
キリスト教的生における幸せ観は主観的なものではありません。神が共にいるということから支えられるのです。 山上の説教を正面から聞くなら戸惑うべきです。何故主イエスはこのように語らざるを得なかったのかと。「幸い」という説教を聞きながら、果たして本当にそうなのか、という問いを抱きながら、しかしそうなのだというところに導かれるのです。思考を麻痺させることなく、主イエスの言葉にとどまりながら考え続けていくことを怠ってはならないのです。 マタイによる福音書の中心的なテーマは神が共にいるということです。降誕物語での「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(1:23)から、復活のキリストの言葉「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)として一貫します。その要となるのが「命じておいたこと」の内容であるイエス・キリストの教えです。イエス・キリストが言葉として共にいるということ、ここにこそ幸せがあります。
ですから、わたしたちは「イエス・キリストの教えを守る」とは、「わたしたちにとって」何なのかをまず問わなければなりません。「悲しむ人々が慰められる」ために、わたしは今、何をなすべきなのか、何ができるのか。「義に飢え渇く人々が満たされる」ために、今、何をなすべきなのか、何ができるのか。具体的に。主イエスの「幸いである」という宣言を受け止めるならば、逆説的ですが、実現のためには歩み出さなくてはならないのです。 イエス・キリストの道を歩む者は「義のために迫害される」(5:10)、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」(5:11)事態がやってくるだろう。が、しかし、そのただ中にあってさえ「幸い」が用意されているとの宣言なのです。イエス・キリストが生きられた、その生き方に招かれているところにこそ、キリスト者にとっての幸せが確実な約束として備えられているのです。この事実に信頼しつつ歩んでいきましょう。きっとそこには、キリストにある幸せが待ち受けているはずです。
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