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2013年4月21日 (日)

マルコによる福音書 1章9~11節 「洗礼」

 イエス・キリストその方は本来ならば、罪の許しを得させる洗礼を必要などないのです。にもかかわらず、あえて受けられたというところに、わたしたちが洗礼を受けていく筋道があるわけです。神の真の独り子イエス・キリストが神としてこの世に来られた、その出来事を一言で言うならば、神の謙遜の出来事です。自らを低くする、つまり、人間の仲間となる、友となる、そのような方が神である。元々、神は神ご自身として、その栄光の座にいますということで十分である、にもかかわらず、あえて人の悲惨さに目を留められ贖おうとなされた、そのような意思が神ご自身の遜りの業、謙遜な業として、イエス・キリストとして来られたのです(フィリピ2:6-11参照)。
 栄光の主は肉をとり、苦しみの道を辿り、十字架に向かって歩まれるようにしてしか表わされないのだと聖書は述べています(マルコ9:2-8参照)。仕えていく、僕となっていく、そのあり方が、主イエス・キリストが洗礼者ヨハネから受けた洗礼の意味合いなのです(マルコ10:42‐45参照)。わたしたちは洗礼を受けます。が、主イエス・キリストが、その遜り、従順、僕となっていく、仕えていく、そのあり方として、代理としての洗礼を受けられたということに基づいてのみ、わたしたちの受ける洗礼には意義があるのです。
 水による洗礼が牧師を介して行われます。それは何なのか。イエス・キリストが洗礼を受けた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」と神の言葉が語られます。そして、神の心に適う生涯、すなわち苦難の道を歩む生涯を主イエス・キリストは遂げられるのです。その方に対して「これに聞け」(マルコ9:-8参照)と示されていることに対する応答として、わたしたちの洗礼はあるのです。
 イエス・キリストご自身の信仰における洗礼を通して理解されるならば、わたしたちの洗礼はスタートラインへの決意であり、出発であり、信仰の表明ないしは告白です。さらに言えば祈りです。わたしたちが、イエス・キリストにおいて恵まれてしまっている、贖われてしまっている、洗礼を授けられてしまっている感謝の祈り、それがイエス・キリストに向かって、その目標を洗礼によって設定されていることを認めていく作業です。このことはキリスト中心に考えていくと応答なのです。すでに与えられていることに関して感謝していく、祈っていく、そのような意味において洗礼は人を救うのだと。

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