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2013年4月

2013年4月28日 (日)

マルコによる福音書 1章12~15節 「胎動」

 マルコ福音書の記事はマタイやルカの誘惑物語とは少し違うかもしれません。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とあるからです。つまり、荒れ野での40日間サタンから誘惑されていたが、それは至福の時、自己肯定に満ち足りていた、ということです。ここには、イザヤ書11:1-10の記事がおそらく前提とされています。終末論的な意味合いでの子どもと野獣が平和にいるイメージが描かれているからです。
 12節から13節の神の思いに適った至福の時、「引きこもり」の時があるからこそ、悪霊を追い出す権威があるのです。さらに、機会、チャンス、とも呼ぶべき時が満ち満ちて溢れるばかりになり、公の生涯への主イエスの登場へと道筋は進んでいきます。ここで言われている「時」という言葉は、カイロスです。これは、「今、ここで」という点で表わされるような意味合いですが、過去も現在も未来も凝縮されているような、いわば漲っているような状態を表します。この時を失ったら取り返しがつかない、チャンスとか機会とか人生で何度も巡り回って来るのではないものです。今、語り行動しなければ、今しかないという抜き差しならない切迫したダイナミズムがあるのです。
 洗礼者ヨハネの荒れ野の厳しさの中にありながら、人々の喧騒から神の思いの純粋さを求めていった道ではなく、入れ替わるようにして荒れ野ではなく里に向かうのです。ガリラヤという現場にです。差別や抑圧が律法主義と相俟って人々が生きている自由や喜びを阻害する構造悪の満ちている現場に、満ち満ちた、漲る時間、カイロスという時間において神の国の到来を告げるのです。そして、「悔い改め」を語るのですが、主イエスの言葉と行動において示される「悔い改め」とは洗礼者ヨハネの語る「罪の悔い改め」を凌駕するものであったのです。洗礼者ヨハネのもっているものよりも、はるかに生活者の実態に寄り添うものであったことは確かです。
 マルコ福音書を読み進めていくと、当時の社会にあって、より弱くされ、小さくされた人の友となり仲間となり、喜びも悲しみも共感し共鳴して生きる十字架への道行きがあるのです。この寄り添いに連なることこそが主イエスの説く「悔い改め」に他なりません。生き方を全面的に展開することへの促しが「悔い改め」です。新共同訳で「福音を信じなさい」と訳されている部分を田川建三は注解書では「そして福音によって信ずることをせよ」(最近の訳では「福音において信ぜよ」)と訳しています。いずれにしても、田川が注解で次のように述べていることには注意を払う必要がありそうです。すなわち、「つまり、神の存在を信ずるとか、キリスト教の語り告げる救いを正しいものとして信ずるとかいう意味での、対象の存在もしくは正当性を信ずるというだけのことではなく、福音というものの広がりの中に自らを投じて、それを自分の生の場として生きよ、ということである」との指摘です。
 その指摘の中に包まれながら、歩むことのできる幸いの宣言に、わたしたちは与ってしまっているのです。ここにこそ神の言葉の胎動が現実化しているのです。

2013年4月21日 (日)

マルコによる福音書 1章9~11節 「洗礼」

 イエス・キリストその方は本来ならば、罪の許しを得させる洗礼を必要などないのです。にもかかわらず、あえて受けられたというところに、わたしたちが洗礼を受けていく筋道があるわけです。神の真の独り子イエス・キリストが神としてこの世に来られた、その出来事を一言で言うならば、神の謙遜の出来事です。自らを低くする、つまり、人間の仲間となる、友となる、そのような方が神である。元々、神は神ご自身として、その栄光の座にいますということで十分である、にもかかわらず、あえて人の悲惨さに目を留められ贖おうとなされた、そのような意思が神ご自身の遜りの業、謙遜な業として、イエス・キリストとして来られたのです(フィリピ2:6-11参照)。
 栄光の主は肉をとり、苦しみの道を辿り、十字架に向かって歩まれるようにしてしか表わされないのだと聖書は述べています(マルコ9:2-8参照)。仕えていく、僕となっていく、そのあり方が、主イエス・キリストが洗礼者ヨハネから受けた洗礼の意味合いなのです(マルコ10:42‐45参照)。わたしたちは洗礼を受けます。が、主イエス・キリストが、その遜り、従順、僕となっていく、仕えていく、そのあり方として、代理としての洗礼を受けられたということに基づいてのみ、わたしたちの受ける洗礼には意義があるのです。
 水による洗礼が牧師を介して行われます。それは何なのか。イエス・キリストが洗礼を受けた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」と神の言葉が語られます。そして、神の心に適う生涯、すなわち苦難の道を歩む生涯を主イエス・キリストは遂げられるのです。その方に対して「これに聞け」(マルコ9:-8参照)と示されていることに対する応答として、わたしたちの洗礼はあるのです。
 イエス・キリストご自身の信仰における洗礼を通して理解されるならば、わたしたちの洗礼はスタートラインへの決意であり、出発であり、信仰の表明ないしは告白です。さらに言えば祈りです。わたしたちが、イエス・キリストにおいて恵まれてしまっている、贖われてしまっている、洗礼を授けられてしまっている感謝の祈り、それがイエス・キリストに向かって、その目標を洗礼によって設定されていることを認めていく作業です。このことはキリスト中心に考えていくと応答なのです。すでに与えられていることに関して感謝していく、祈っていく、そのような意味において洗礼は人を救うのだと。

2013年4月14日 (日)

マルコによる福音書 1章1~8節 「声」

 洗礼者ヨハネがなした声、それは「道」を備えることでした。これから決定的な方が登場するという宣言でした。彼は自分が「声」であるという自己理解に立っています。7節には「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」とありますから具体的な人間がイメージされています。その声はガリラヤからエルサレムに向かい、十字架に磔られ、よみがえられるという、イエス・キリストの言葉と振る舞いとしての道として示されます。イエスの生き方自体が前もって語られたのです。これが道なのです。「悔い改めを得させる洗礼」「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と洗礼者ヨハネは語りつつ宣教していました。
 「聖霊で洗礼」とは、「具体的な儀式ではなく、イエスの活動全体に対する象徴と考えられている」と田川建三は指摘しています。イエスの生き方に与ることが「聖霊で洗礼」の意味だと理解されます。「声」は示すことしかできないけれど、「聖霊による洗礼」は逆説的ですが、実体をもつ、ということです。
 「聖霊で洗礼」の「道」。それは、イエスがガリラヤに登場し、様々な癒しの業を行ない、悲しむ者を慰め、飢えている者に食べさせ、病んでいる者を癒し、悲しんでいる者を慰め、神の現臨を自ら語るという活動です。そこにおいて、もう一度生き直す希望や勇気が与えられるという、一つひとつの出会いを通して歩まれたイエスの生き方それ自身が「聖霊で洗礼」をということなのです。
 洗礼者ヨハネは、このイエスの登場を「声」をもって示しました。その「声」はイエスこそが「神の子」であり「福音」なのだ、というのです。「神の子」や「福音」という言葉は当時の世界では人々に一定にイメージされる意味合いを持つものでした。たとえば、「神の子」とはローマの価値観からすればローマ皇帝を、ユダヤの価値観からすれば終末論的なメシヤやダビデのようなユダヤの英雄的な王を。「福音」はローマ皇帝の誕生や戦いの勝利など帝国に告げられる「良き音信」でもありました。
 洗礼者ヨハネの「声」はイエスの登場を「異化」(吟味して新しく組み替える)しつつ響かせています。わたしたちはこの声を、福音書の語るイエスから絶えず異化しつつ聞きうる「道」として受けとめ、「神の子」の「福音」に共に与る共同体として整えられたいと願います。

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