マルコによる福音書 1章12~15節 「胎動」
マルコ福音書の記事はマタイやルカの誘惑物語とは少し違うかもしれません。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とあるからです。つまり、荒れ野での40日間サタンから誘惑されていたが、それは至福の時、自己肯定に満ち足りていた、ということです。ここには、イザヤ書11:1-10の記事がおそらく前提とされています。終末論的な意味合いでの子どもと野獣が平和にいるイメージが描かれているからです。
12節から13節の神の思いに適った至福の時、「引きこもり」の時があるからこそ、悪霊を追い出す権威があるのです。さらに、機会、チャンス、とも呼ぶべき時が満ち満ちて溢れるばかりになり、公の生涯への主イエスの登場へと道筋は進んでいきます。ここで言われている「時」という言葉は、カイロスです。これは、「今、ここで」という点で表わされるような意味合いですが、過去も現在も未来も凝縮されているような、いわば漲っているような状態を表します。この時を失ったら取り返しがつかない、チャンスとか機会とか人生で何度も巡り回って来るのではないものです。今、語り行動しなければ、今しかないという抜き差しならない切迫したダイナミズムがあるのです。
洗礼者ヨハネの荒れ野の厳しさの中にありながら、人々の喧騒から神の思いの純粋さを求めていった道ではなく、入れ替わるようにして荒れ野ではなく里に向かうのです。ガリラヤという現場にです。差別や抑圧が律法主義と相俟って人々が生きている自由や喜びを阻害する構造悪の満ちている現場に、満ち満ちた、漲る時間、カイロスという時間において神の国の到来を告げるのです。そして、「悔い改め」を語るのですが、主イエスの言葉と行動において示される「悔い改め」とは洗礼者ヨハネの語る「罪の悔い改め」を凌駕するものであったのです。洗礼者ヨハネのもっているものよりも、はるかに生活者の実態に寄り添うものであったことは確かです。
マルコ福音書を読み進めていくと、当時の社会にあって、より弱くされ、小さくされた人の友となり仲間となり、喜びも悲しみも共感し共鳴して生きる十字架への道行きがあるのです。この寄り添いに連なることこそが主イエスの説く「悔い改め」に他なりません。生き方を全面的に展開することへの促しが「悔い改め」です。新共同訳で「福音を信じなさい」と訳されている部分を田川建三は注解書では「そして福音によって信ずることをせよ」(最近の訳では「福音において信ぜよ」)と訳しています。いずれにしても、田川が注解で次のように述べていることには注意を払う必要がありそうです。すなわち、「つまり、神の存在を信ずるとか、キリスト教の語り告げる救いを正しいものとして信ずるとかいう意味での、対象の存在もしくは正当性を信ずるというだけのことではなく、福音というものの広がりの中に自らを投じて、それを自分の生の場として生きよ、ということである」との指摘です。
その指摘の中に包まれながら、歩むことのできる幸いの宣言に、わたしたちは与ってしまっているのです。ここにこそ神の言葉の胎動が現実化しているのです。
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