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2013年4月14日 (日)

マルコによる福音書 1章1~8節 「声」

 洗礼者ヨハネがなした声、それは「道」を備えることでした。これから決定的な方が登場するという宣言でした。彼は自分が「声」であるという自己理解に立っています。7節には「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」とありますから具体的な人間がイメージされています。その声はガリラヤからエルサレムに向かい、十字架に磔られ、よみがえられるという、イエス・キリストの言葉と振る舞いとしての道として示されます。イエスの生き方自体が前もって語られたのです。これが道なのです。「悔い改めを得させる洗礼」「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と洗礼者ヨハネは語りつつ宣教していました。
 「聖霊で洗礼」とは、「具体的な儀式ではなく、イエスの活動全体に対する象徴と考えられている」と田川建三は指摘しています。イエスの生き方に与ることが「聖霊で洗礼」の意味だと理解されます。「声」は示すことしかできないけれど、「聖霊による洗礼」は逆説的ですが、実体をもつ、ということです。
 「聖霊で洗礼」の「道」。それは、イエスがガリラヤに登場し、様々な癒しの業を行ない、悲しむ者を慰め、飢えている者に食べさせ、病んでいる者を癒し、悲しんでいる者を慰め、神の現臨を自ら語るという活動です。そこにおいて、もう一度生き直す希望や勇気が与えられるという、一つひとつの出会いを通して歩まれたイエスの生き方それ自身が「聖霊で洗礼」をということなのです。
 洗礼者ヨハネは、このイエスの登場を「声」をもって示しました。その「声」はイエスこそが「神の子」であり「福音」なのだ、というのです。「神の子」や「福音」という言葉は当時の世界では人々に一定にイメージされる意味合いを持つものでした。たとえば、「神の子」とはローマの価値観からすればローマ皇帝を、ユダヤの価値観からすれば終末論的なメシヤやダビデのようなユダヤの英雄的な王を。「福音」はローマ皇帝の誕生や戦いの勝利など帝国に告げられる「良き音信」でもありました。
 洗礼者ヨハネの「声」はイエスの登場を「異化」(吟味して新しく組み替える)しつつ響かせています。わたしたちはこの声を、福音書の語るイエスから絶えず異化しつつ聞きうる「道」として受けとめ、「神の子」の「福音」に共に与る共同体として整えられたいと願います。

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