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2013年3月 3日 (日)

出エジプト記3章1~12節 「招き」

 召命とは決断ではありません。神の呼ばわりは、その人の状況がどのようであっても有無を言わせないようにして招くことで人間の意志さえも超越して働きかける力の働きです。人間は、この世にしがみ付こうとし召命を拒もうとし自らの弱さをさらけ出します。自分が何者でもないことを思い知らされ限界の中で応答せざるを得ないところへと追い込まれていくのです。
 そこにあるのは、神が呼ばわっており、それに応答していこうとする心が備えられていくことです。その根拠はあくまで神の招きであり、「わたしは必ずあなたと共にいる」という力強い言葉によって初めて信仰として備えられていくものです。人間の側からは決して起こらないということです。
 神が名前を呼んで、その一人ひとりに相応しい仕事を命じます。命じられた人間は、すべての存在、実存をかけて責任的に応答する義務があります。ここに召命の本質があります。拒む自由がありますが、その道は神への反逆であり、破滅が待っています。
 召命が与えられた人は与えられた課題、そこにおいて示される神の言葉に無条件に従うことが求められます。モーセが名前を呼ばれて「はい」と答えたようにです。その時、モーセが履物を脱いだのは、自ら身に着けてきたものを削ぎ落とす象徴です。同じようにわたしたちも神に向かって僕として、自らの存在根拠を自己放棄していくことが求められています。召命が与えられた者は、この世において与えられた生涯を旅人として歩まなければなりません。来たるべき日に至る神の国に向かって歩むのです。神の思いがいかなるものであるかということを証しする生涯へと招かれるのです。絶えず神の呼ばわりから再解釈しながらです。ここに召命の課題があるのです。
 モーセが率いたイスラエルの40年間が旅であったところに注目したいと思います。色々なことが起こります。イスラエルの民の不信仰やつぶやきや不平、不満などが。神と人間には決定的な質的差異があるからです。人間には限界があるからです。
 しかし、神の呼ばわりに対して忠実に立ち続けていくならば、この世を旅人として共に歩んでいく可能性に開かれているということを今日はモーセの召命の記事から共に確認しておきたいと思います。
 わたしたちが、ここにこうして教会に呼び集められているのは、そもそもわたしたちの決断や敬虔や自らの信仰に根拠があるからではありません。絶えず根気よく招き続けるところの神の言葉の呼びかけとしての招きが何にも先んじて存在し働き続けておられるからなのです。

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