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2013年3月24日 (日)

出エジプト記16章1~18節 「日毎の糧は」

 出エジプト記の大きなテーマはエジプトでの奴隷としてのイスラエルの民の苦しみや呻きの現実から神が救い出すという物語です。しかし、民は神に対しての全幅の信頼をおいてはいませんでした。どこかいつも帰ってはならないエジプトに心魅かれてしまうことから自由ではありませんでした。その一つが食べ物や水をめぐって、しばしば口から出てしまう不平や不満、つぶやきでした。奴隷生活さえ懐かしく思えてくるのです。エジプトにいた時の方が満足に食べられたのだと過去の記憶が肥大化してしまうのです。さらには、いっそのことエジプトで死んでしまった方が良かったとさえ語り始めるのです。
 脱出の出来事が無意味にさえ思われてくるのです。ここにあるのは、ただ単に奴隷生活に戻りたいということだけではありません。人は生活の基盤には神ないしは神々をもっています。人がものを考える、乃至は行動を起こす時に何に依り頼んでいるかが基準となっているのです。背後には、その場において自分がどのような神に対して帰依しているかが問われているからです。民の不平や不満、つぶやきの背後にはエジプトを脱出させた神への反逆、すなわちかつてのエジプトの支配の背後にある神々を拝む事でもあるのです。
 にもかかわらず、神は民の裏切り行為を受けとめて、ウズラとマナを日毎の糧として与えることによって応えるのです。
 神ご自身が神ご自身として自らを顕してくださっているという神の働きに委ね、祈っていくところにこそ旧新約聖書において証言されている唯一の御言葉であるイエス・キリストの神がおられるのです。
 今日の聖書は、イスラエルの民の不信仰にもかかわらず、ウズラとマナによってエジプトから救い出してくださった神が、わたしたちの教会においては、十字架において差し出し、救い出してくださるのだという証言として読むことが可能です。
かつてイスラエルに与えられた契約が、今やイエス・キリストとして差し出されていることの象徴として、パンとぶどう酒によって守られる聖餐式は理解されています。神の上からの一方的な迫りが、自らをすべての人に向かって差し出すようにして日毎の糧を与え、人々の生命を支え、守り、育んでくださるのです。わたしたちが十字架上に磔られたイエスの姿を思い起こすことによって、出エジプト記の語るところの日毎の糧をもって、神はわたしたちの生命を今日も新しくしてくださるのです。

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