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2013年3月

2013年3月31日 (日)

出エジプト記 32章1~14節 「先立つ神」

 神ないし神々は共同体が依って立つところの生き方の基本です。アロンは自分の頭の中の理想像としての神を「金の子牛」として鋳造します。この立場には、一般大衆の権利や利益、願望を代弁することで支持を得て、その時々の風潮に対して対決しようとする政治的な思想、姿勢があります。一言でいえば、ポピュリズムです。人々が何となく不満に思っている事柄をあたかも代弁するように仮装の敵を作り攻撃を加えることで一致団結できるような手法でもあります。 
 しかし、教会はアロンの立場を取ってはいけないのです。あくまでもモーセの立場に立たなくてはなりません。次の言葉のようにです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(20:2-5a)と。
 わたしたちがポピュリズムに流されやすいのは、モーセが見えなくなることから引き起こされたイスラエルの民の不安と無縁ではありません。ポピュリズムに確からしさを感じてしまうのは、いつの時代も人は手で触れ、目で見て確認できるような安心を信じてしまう癖があるということです。
 本来、神というものは客観的に見て確認できるものではありません。ただ啓示によって認識できるものであるにもかかわらず、自分たちが身につけているものの象徴として造り出した金のアクセサリーを、あたかも神であるかのように「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(32:4)と錯覚させ、信じさせてしまうのです。圧倒的多数の人たちが喜んで受け入れるような「金の子牛」に惑わされてはならないのです。
 「金の子牛」において象徴されるのは富とか権力という欲望への意志です。イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と語ることによって示された態度決定を神の側からの働きかけにより頼むところにしか教会の信仰はあり得ないのです。イエス・キリストの神ご自身が語りかけ、先立ってくださることによってしか信仰はあり得ないのです。人々の願いによるのではありません。
 復活の主が自らを示されるところ、ガリラヤでの再会の約束に信じて従うところにしか、わたしたちの信仰の根拠はありえないことを共々確認したいと願っています。

2013年3月24日 (日)

出エジプト記16章1~18節 「日毎の糧は」

 出エジプト記の大きなテーマはエジプトでの奴隷としてのイスラエルの民の苦しみや呻きの現実から神が救い出すという物語です。しかし、民は神に対しての全幅の信頼をおいてはいませんでした。どこかいつも帰ってはならないエジプトに心魅かれてしまうことから自由ではありませんでした。その一つが食べ物や水をめぐって、しばしば口から出てしまう不平や不満、つぶやきでした。奴隷生活さえ懐かしく思えてくるのです。エジプトにいた時の方が満足に食べられたのだと過去の記憶が肥大化してしまうのです。さらには、いっそのことエジプトで死んでしまった方が良かったとさえ語り始めるのです。
 脱出の出来事が無意味にさえ思われてくるのです。ここにあるのは、ただ単に奴隷生活に戻りたいということだけではありません。人は生活の基盤には神ないしは神々をもっています。人がものを考える、乃至は行動を起こす時に何に依り頼んでいるかが基準となっているのです。背後には、その場において自分がどのような神に対して帰依しているかが問われているからです。民の不平や不満、つぶやきの背後にはエジプトを脱出させた神への反逆、すなわちかつてのエジプトの支配の背後にある神々を拝む事でもあるのです。
 にもかかわらず、神は民の裏切り行為を受けとめて、ウズラとマナを日毎の糧として与えることによって応えるのです。
 神ご自身が神ご自身として自らを顕してくださっているという神の働きに委ね、祈っていくところにこそ旧新約聖書において証言されている唯一の御言葉であるイエス・キリストの神がおられるのです。
 今日の聖書は、イスラエルの民の不信仰にもかかわらず、ウズラとマナによってエジプトから救い出してくださった神が、わたしたちの教会においては、十字架において差し出し、救い出してくださるのだという証言として読むことが可能です。
かつてイスラエルに与えられた契約が、今やイエス・キリストとして差し出されていることの象徴として、パンとぶどう酒によって守られる聖餐式は理解されています。神の上からの一方的な迫りが、自らをすべての人に向かって差し出すようにして日毎の糧を与え、人々の生命を支え、守り、育んでくださるのです。わたしたちが十字架上に磔られたイエスの姿を思い起こすことによって、出エジプト記の語るところの日毎の糧をもって、神はわたしたちの生命を今日も新しくしてくださるのです。

2013年3月10日 (日)

出エジプト記12:29-42「切迫の中に守りがある」

 イスラエルと、その周縁にいる人々がエジプトから脱出するところに救いがあるというのが出エジプト記のテーマの一つです。小羊の血を塗りつけたイスラエルの民の家の鴨居と柱を神は過ぎ越し、それ以外の初子が滅ぼす。このあと、イスラエルは旅立ちます。この時の食事が後の過越しの食事として伝承されていきます。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(12:5-11)。神の救いを記念して行われるものです。脱出の切迫の中に確かな神の導きがあるのです。この過越しを前提としてキリスト教会の聖餐は祝われています。かつてのイスラエルの過越しにおいてはイスラエルと周縁部分という括りであった出来事が、その括りから解放され、あらゆる人々に向かって開かれていくのです。共観福音書での最後の晩餐は過越しの食事として描かれています。ヨハネによる福音書では一日前の子羊を屠る日とされています(これは主イエスが贖いの子羊と同定される理解に依ります)。いずれにしても、あらゆる人々に対して開かれた贖いの業が主イエスの最後の晩餐において収斂されたのだと理解すべきです。例えば、マルコによる福音書の制定語には次のようにあります「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』」(マルコ14:22-25)。マルコによる福音書にある「多くの人のため」とは、物語の中で行われた、あらゆる主の食卓のまとめとして理解すべきです。この意味で、わたしたちの聖餐には、切迫の中での守りが示されています。また、この世を旅する教会が最終的な救いの約束の招き、また主イエスがその場に臨んでいることを信じることが赦されてもいるのです。

2013年3月 3日 (日)

出エジプト記3章1~12節 「招き」

 召命とは決断ではありません。神の呼ばわりは、その人の状況がどのようであっても有無を言わせないようにして招くことで人間の意志さえも超越して働きかける力の働きです。人間は、この世にしがみ付こうとし召命を拒もうとし自らの弱さをさらけ出します。自分が何者でもないことを思い知らされ限界の中で応答せざるを得ないところへと追い込まれていくのです。
 そこにあるのは、神が呼ばわっており、それに応答していこうとする心が備えられていくことです。その根拠はあくまで神の招きであり、「わたしは必ずあなたと共にいる」という力強い言葉によって初めて信仰として備えられていくものです。人間の側からは決して起こらないということです。
 神が名前を呼んで、その一人ひとりに相応しい仕事を命じます。命じられた人間は、すべての存在、実存をかけて責任的に応答する義務があります。ここに召命の本質があります。拒む自由がありますが、その道は神への反逆であり、破滅が待っています。
 召命が与えられた人は与えられた課題、そこにおいて示される神の言葉に無条件に従うことが求められます。モーセが名前を呼ばれて「はい」と答えたようにです。その時、モーセが履物を脱いだのは、自ら身に着けてきたものを削ぎ落とす象徴です。同じようにわたしたちも神に向かって僕として、自らの存在根拠を自己放棄していくことが求められています。召命が与えられた者は、この世において与えられた生涯を旅人として歩まなければなりません。来たるべき日に至る神の国に向かって歩むのです。神の思いがいかなるものであるかということを証しする生涯へと招かれるのです。絶えず神の呼ばわりから再解釈しながらです。ここに召命の課題があるのです。
 モーセが率いたイスラエルの40年間が旅であったところに注目したいと思います。色々なことが起こります。イスラエルの民の不信仰やつぶやきや不平、不満などが。神と人間には決定的な質的差異があるからです。人間には限界があるからです。
 しかし、神の呼ばわりに対して忠実に立ち続けていくならば、この世を旅人として共に歩んでいく可能性に開かれているということを今日はモーセの召命の記事から共に確認しておきたいと思います。
 わたしたちが、ここにこうして教会に呼び集められているのは、そもそもわたしたちの決断や敬虔や自らの信仰に根拠があるからではありません。絶えず根気よく招き続けるところの神の言葉の呼びかけとしての招きが何にも先んじて存在し働き続けておられるからなのです。

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