出エジプト記 32章1~14節 「先立つ神」
神ないし神々は共同体が依って立つところの生き方の基本です。アロンは自分の頭の中の理想像としての神を「金の子牛」として鋳造します。この立場には、一般大衆の権利や利益、願望を代弁することで支持を得て、その時々の風潮に対して対決しようとする政治的な思想、姿勢があります。一言でいえば、ポピュリズムです。人々が何となく不満に思っている事柄をあたかも代弁するように仮装の敵を作り攻撃を加えることで一致団結できるような手法でもあります。
しかし、教会はアロンの立場を取ってはいけないのです。あくまでもモーセの立場に立たなくてはなりません。次の言葉のようにです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(20:2-5a)と。
わたしたちがポピュリズムに流されやすいのは、モーセが見えなくなることから引き起こされたイスラエルの民の不安と無縁ではありません。ポピュリズムに確からしさを感じてしまうのは、いつの時代も人は手で触れ、目で見て確認できるような安心を信じてしまう癖があるということです。
本来、神というものは客観的に見て確認できるものではありません。ただ啓示によって認識できるものであるにもかかわらず、自分たちが身につけているものの象徴として造り出した金のアクセサリーを、あたかも神であるかのように「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(32:4)と錯覚させ、信じさせてしまうのです。圧倒的多数の人たちが喜んで受け入れるような「金の子牛」に惑わされてはならないのです。
「金の子牛」において象徴されるのは富とか権力という欲望への意志です。イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と語ることによって示された態度決定を神の側からの働きかけにより頼むところにしか教会の信仰はあり得ないのです。イエス・キリストの神ご自身が語りかけ、先立ってくださることによってしか信仰はあり得ないのです。人々の願いによるのではありません。
復活の主が自らを示されるところ、ガリラヤでの再会の約束に信じて従うところにしか、わたしたちの信仰の根拠はありえないことを共々確認したいと願っています。
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