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2013年3月10日 (日)

出エジプト記12:29-42「切迫の中に守りがある」

 イスラエルと、その周縁にいる人々がエジプトから脱出するところに救いがあるというのが出エジプト記のテーマの一つです。小羊の血を塗りつけたイスラエルの民の家の鴨居と柱を神は過ぎ越し、それ以外の初子が滅ぼす。このあと、イスラエルは旅立ちます。この時の食事が後の過越しの食事として伝承されていきます。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内臓も切り離さずに火で焼かねばならない。それを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には、焼却する。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(12:5-11)。神の救いを記念して行われるものです。脱出の切迫の中に確かな神の導きがあるのです。この過越しを前提としてキリスト教会の聖餐は祝われています。かつてのイスラエルの過越しにおいてはイスラエルと周縁部分という括りであった出来事が、その括りから解放され、あらゆる人々に向かって開かれていくのです。共観福音書での最後の晩餐は過越しの食事として描かれています。ヨハネによる福音書では一日前の子羊を屠る日とされています(これは主イエスが贖いの子羊と同定される理解に依ります)。いずれにしても、あらゆる人々に対して開かれた贖いの業が主イエスの最後の晩餐において収斂されたのだと理解すべきです。例えば、マルコによる福音書の制定語には次のようにあります「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。』」(マルコ14:22-25)。マルコによる福音書にある「多くの人のため」とは、物語の中で行われた、あらゆる主の食卓のまとめとして理解すべきです。この意味で、わたしたちの聖餐には、切迫の中での守りが示されています。また、この世を旅する教会が最終的な救いの約束の招き、また主イエスがその場に臨んでいることを信じることが赦されてもいるのです。

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