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2013年2月10日 (日)

出エジプト記 2章11~25節 「道は備えられている」

 王女の養子となったモーセはエジプト人として40年間育てられます。しかし、出自はヘブライ人です。自分はいったいエジプト人なのかヘブライ人なのか、そしてこの世に神がいのちを与えた意味とか使命とは何か。その後、エジプトを逃れミディアンの地で暮らすことになりますが、この問いを抱えたまま、静かな平凡な、だけども厳しい羊飼いとしての暮らしを40年間黙々と続けます。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。」時まで。このミディアンでの日々は、隠遁の生活ないしは「引きこもり」の状態であったと読めます。全く歴史的な参与と言うものがない。しかし、この引きこもっているような平凡な暮らしの中にこそ、実は後の出エジプトに至る激しい生き方へと招かれる、そのエネルギーが蓄積されていくということではなかったかと思います。歴史において一見無駄に見える時間、そこに実は意味があるということを出エジプト記の著者は読ませようとしています。出エジプトの出来事はただ単に急に始まったわけではなくて、神が呼ばわるまでは引きこもるようにしている、その期間が大切なのだということです。
 本当に呼ばわれた時に働くためにも、この「引きこもり」の期間が、実はわたしたちの信仰のあり方にとっても重要ではないかと思います。リトリート(退却、後退)と一見思われるところにこそ積極的な意義がある。わたしは、その中心が礼拝だと思っています。今こうして集まっていますが、この時間は何をも積極的な生産物を出しません。けれども、この無駄な時間こそが必要だということです。自分が生活している現場、その働きから一旦退却するわけです。家庭や職場での役割を放棄する、学生であるならば学びの時を一回放棄して、ただただ神の前で無為であるということを受け止めながら、共に神の前に集まるという時間が必要だということです。その時があるからこそ新たな歩みに呼ばわれていく、そういう道筋があるということです。
 神ご自身は、歴史を見ておられ、またイスラエルの選びにおいて顧みておられる。出エジプトのためにはミディアンでの40年が必要であった。そのような性質をもった礼拝という出来事において、わたしたちはこの世から、一人ひとりの生活から一旦退却し後退する。この時間によってわたしたちは、もう一度自らの与えられた使命、呼ばわれている現場に帰っていくことができるのです。

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