出エジプト記 1章22節~2章10節 「神を呼び求める」
今日の聖書は、イスラエルの民はエジプトにおいて苦難が強いられるようになった頃、後の指導者となるモーセが誕生しエジプトの王女の養子となる物語です。この物語には、イスラエルの民の苦しみの姿が、泣いている赤ん坊としてのモーセの姿を通して先取られています。2:6には「赤ん坊がおり、しかも男の子で、泣いていた」とあります。これはやがてイスラエルの民がエジプトを脱出しなければならない状況である苦しみや辛さを象徴しています。これを神がイスラエルを見聞きして(3:7-10)、やがてカナンに導き上るのです。キリスト教詩人の八木重吉に次のような詩があります。
さて
あかんぼは
なぜに あん あん あん あん なくんだろうか
ほんとに
うるせいよ
あん あん あん あん
あん あん あん あん
うるさか ないよ
うるさか ないよ
よんでるんだよ
かみさまをよんでるんだよ
みんなもよびな
あんなに しつっこくよびな
赤ん坊モーセの泣いている姿を、神を求める祈りだったのではないでしょうか。イスラエルの苦しみの中での祈りを、それに先立ち神は聴こうと待っていてくださるのだ、なおかつそれを決して放っておかれないのだと聖書は語りたいのです。
このような赤ん坊の泣く姿に象徴される祈りが、わたしたちにとって決して他人事ではなくて、我が事として読むことが赦されていると、聖書は語りかけているのです。そして神は呼び求められることを待っていてくださるのです。
ここには、今涙を流さざるを得ない、どんなに辛い状況にあっても、決して絶望することなく安心と平安へと導いてくださる神の意志を読み取ることができるのです。これを信じることができるかどうかに、わたしたちの信仰はかかっていると言っても大袈裟ではないでしょう。ですから、泣いている赤ん坊モーセのように、しつこくしつこくわたしたちは率直に神を呼び求めることが赦されているところにこそ幸いへの招きが確かであることを共々感謝したいと願っています。
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