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2013年1月

2013年1月27日 (日)

創世記 45章3~8節 「神の計画に委ねる」

 創世記37章から50章を通して見ると、ヨセフの生涯がよきものであったと思えるように物語られています。登場人物と共に主がいるということは、安らかな死に向かって神の守りがあるということになります。
 これはハッピーエンドが約束されているから、その時々の苦労を我慢できるということではありません。安っぽい機械仕掛けの神が語られているのではありません。その時々に人が生きている限りにおいては様々な艱難があるが、主が共にいることにおいて逃れる道があるのだというところにすべてを委ねていくということです。いわゆる神の計画であるところの摂理と言うものを前提として生きていく中において、この世の苦しみを耐えうるし、それを真正面から受け止めていくことができる勇気を与えようとするのが、創世記のヨセフ物語の働きだろうと思います。
 カナンからエジプトへの旅のヨセフの壮大なドラマは、一つの成功物語かもしれません。今日の箇所は、ヤコブや兄たちが死んだと考えていたヨセフが自らを告白する場面です。思いもしなかった再会です。兄たちはヨセフを見捨てた負い目を悔やんで来た。ヨセフは、驚きのあまり応えることのできない兄たちに向かって近寄るようにと促します。ここでの物理的なお互いの距離は、負い目とか憎しみという心理的隔絶を表します。これを近寄るように促すヨセフの言葉は和解へと導くものです。許すということです。
 やがてイスラエルの民はエジプトに定住することになりますが、その前提として「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」との言葉があります。かつて兄たちに捨てられて悲しみの時を過ごしてきたけれど、過去の辛い時々において神が共にいますということにおいて、自分がこの世に生まれ生かされている意味や価値、使命は、神の計画であるところの摂理のうちに隠されていたことを知ったということです。ここにあるのは安易な「予定論」ではありません。神の計画、神の摂理が貫かれることにおいて、その人がその人として生かされていく道が備えられていることに重きを置くことにおいて受け止め直したいと願います。
 神が共にいてくださることによってヨセフは成長していきます。その時には分からなくても、後から神の計画、摂理に包まれていたのだということが腑に落ちるようになるのです。この神の計画に実を委ねていくようにと神の側で待ち受けていてくださることに対する信頼を今一度新たにするようにとの促しがここにあるのです。

2013年1月20日 (日)

イザヤ書11章6~9節、マタイ19章13~15節 「子どもこそ導き手」

 私は上大岡教会の皆様にご協力いただいている「平和のきずな献金」に、呼びかけ側として20年間携わり、多くの子どもたちに出会ってきました。タイの山岳地帯で助け合って暮らしている貧しい少数民族の子どもたち。学校に通えないので、日曜学校で文字を学んでいたカンボジアの村の子どもたち。麻薬や犯罪の危険にさらされながら、懸命に生きるインドのストリート・チルドレン。イエス様に祈っていただくために連れてこられたのは、こうした社会の底辺に追いやられた子どもたちではなかったでしょうか。そして、子どもたちを連れてきた人々とは、必ずしも親ではなく、善意の村人たちだったのでは?
 イエス様の時代、ユダヤでは貧富の差が拡大し、餓死する者が続出したそうです。従って、親を失って路上をさまよう子どもたちが大勢いても不思議ではありません。弟子達は子どもたちがあんまり汚いので追い払おうとしたのでしょう。しかし、イエス様は言われます。「子どもたちを来させなさい。天の国はこのような者達のものである」。神さまはこの子どもたちのように、社会の底辺に追いやられた寄る辺のない者達を愛されるというのです。
 旧約の預言者イザヤは、強い者が弱い者を踏みつけにせず、むしろ弱い者が大切にされる新しい世界のイメージを11章でビジュアルに示しています。注目したいのは、イザヤがそのような世界を先導するのは強いリーダー、大人のリーダーではなく、弱くて頼りない小さな子どもだと言っていることです。わかる気がします。この子どもたちを路上で死なせてはならない。この子どもたちを飢えさせてはならない。大人たちは、困難な状況を必死で生き抜こうとする子どもたちの姿に促されて、共生社会への道をあきらめないで進んでいくことができるからです。
 今、日本でも貧富の差が広がっています。昨年5月、ユニセフは日本では6人に一人の子どもが相対的貧困に直面していると発表しました。強い者が優遇されて当たり前という弱肉強食の社会を、わたしたちはどのように変えていくことができるでしょうか。神さまはことのほか、小さな者を愛される。そのことを覚えて歩んでいきたいと思います。(大嶋果織牧師 NCC教育部総主事)

2013年1月13日 (日)

創世記 41章1~16節 「未来を拓く信仰」

 今日の聖書はヨセフがファラオの夢を解いたことを記しています。「エジプト中の占星術師や賢者たちに解らなかった夢をヨセフは、7年間豊作が続き、続く7年間は飢饉が続く」と解いたのです。やがて、ヨセフは、この対策に任じられていきます。
 ヨセフが夢を見、また解釈することによって歴史に参与していく姿勢の現代的な課題とは何でしょうか。夢も様々であることは旧約の中でも描かれていますが、今日の文脈には歴史的参与を指示しようとする夢の働きが描かれています。信仰的な意味合いから考えましょう。ここでの夢とは、今ないしは将来どのようになっていくのか、という事柄が神が共にいてくださることによって正しく解釈される限りにおいて、夢見られ、解釈された内容は実現されていくということです。もちろん、夢見られ、解釈される力は神に由来します。夢には歴史に参与していく筋道があるのだということを創世記は告げようとしているのです。
 わたしたちの生きる現代は、歴史に積極的に参与し、神に喜ばれる世界観を求めていくような夢を見ることが許されないような時代になっています。しかし、だからこそ夢みる力が神によって備えられているという信頼を取り戻そうではないか、という招きが創世記から現代に向かって語られているのではないでしょうか。教会は夢なき時代にあって、あえて希望し夢みようとするべきです。あえて創造的な少数者としてこの国において警告を与えるような夢を見る、希望を語る課題が、イエス・キリストの神の側から与えられているのだということを確認しておきたいと思います。教会にはキリストを宣べ伝えるという尊くも厳しい使命が与えられています。キリストを信じるとは、あえて希望し、あえて夢みる生き方をイエス・キリストにあって選び取っていく自由に招かれているということです。
 ヨセフに与えられた夢みる力、夢を解釈する力を現代的に解釈していくならば、悲惨な、この現代という時代にあって、あらゆる知恵を絞って夢み、希望していくことです。ある意味イエス・キリストがあの悲惨な状況にあって「野の花、空の鳥」を指差して語られた清廉さに生きることが赦されているのが、わたしたちの教会なのだからです。安心と大丈夫だという言葉の支えのもとで新しい勇気ある一歩を踏み出すことへと促されています。さらには前もって復活のキリストが待っていてくださるという信仰が前提されているのです。このようにして、わたしたちはこの世に向かって、それぞれに与えられた現場に向かって未来を生きる信仰に生かされている存在なのだと信じることができるのです。

2013年1月 6日 (日)

創世記 37章12~36節 「神は存在しないのか」

 今日の物語は、夢みる人でもありヤコブから溺愛されていたヨセフが兄たちの妬みによって殺されかかり、結局はエジプトに売られてゆく文脈で語られていきます。
 兄たちはヨセフがいなくなったことを取り繕うために、特別に仕立てられた彼の長い衣に殺した羊の血を塗りたくることで、猛獣に襲われてしまったことを偽装してヤコブに報告します。すると、「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」(33-35節)。
 このヤコブの態度に注目しましょう。ヤコブの父としての愛は、その子どもがどんなであったとしても「心に留める」方向をもっています。それは、見た夢を自慢げに語るヨセフをたしなめながらもヤコブの立った在り方です。その思いが、ヨセフが死んでしまったと思ったときに「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」という言葉に反応が表されています。
 創世記37章を神は存在するのか、という観点のもと読むと、一見無慈悲にも神は存在しない物語に読むことができます。しかし、そうではありません。実は神が隠れて働く物語であることが分かってきます。神が存在しないかに思える物語のただ中にこそ、神が存在するという逆説を読み取ることができます。陰府に共に下って行きたいとヤコブが願うのは神に顧みられているが故の態度ではないかと思います。神が族長を我が子のようにして慈しんだ歴史に巻き込まれているヤコブの実感が、わが子に抱く感情に表明されているのです。それが聖書の証言する神の愛の働きの方向です。
 ユダヤ・キリスト教の伝統では神は「父」として捉えられていますが、その「父なる神」の愛の方向性というものが共鳴している新約聖書の記事がルカによる福音書15章11-32節の「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる物語です。この物語で描かれる父の姿、ただただ無力なまま弟息子の帰りを待ち続ける、その弟がどのような悲惨な状況におかれたとしても絶えず待ち続けるしかない、傍から見れば愚かな、情けない、いわゆる「ダメ親父」の姿があります。だけれども、そこにこそ無力な神における全能が示されているのです。
 同じようにヤコブの「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」という言葉は無力な父の姿を現していますが、「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15:32)という事柄が、隠された神の存在が確かな歴史として介入されているという信仰へと、わたしたちを導き入れようと促さられているのです。

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