« 創世記 37章12~36節 「神は存在しないのか」 | トップページ | イザヤ書11章6~9節、マタイ19章13~15節 「子どもこそ導き手」 »

2013年1月13日 (日)

創世記 41章1~16節 「未来を拓く信仰」

 今日の聖書はヨセフがファラオの夢を解いたことを記しています。「エジプト中の占星術師や賢者たちに解らなかった夢をヨセフは、7年間豊作が続き、続く7年間は飢饉が続く」と解いたのです。やがて、ヨセフは、この対策に任じられていきます。
 ヨセフが夢を見、また解釈することによって歴史に参与していく姿勢の現代的な課題とは何でしょうか。夢も様々であることは旧約の中でも描かれていますが、今日の文脈には歴史的参与を指示しようとする夢の働きが描かれています。信仰的な意味合いから考えましょう。ここでの夢とは、今ないしは将来どのようになっていくのか、という事柄が神が共にいてくださることによって正しく解釈される限りにおいて、夢見られ、解釈された内容は実現されていくということです。もちろん、夢見られ、解釈される力は神に由来します。夢には歴史に参与していく筋道があるのだということを創世記は告げようとしているのです。
 わたしたちの生きる現代は、歴史に積極的に参与し、神に喜ばれる世界観を求めていくような夢を見ることが許されないような時代になっています。しかし、だからこそ夢みる力が神によって備えられているという信頼を取り戻そうではないか、という招きが創世記から現代に向かって語られているのではないでしょうか。教会は夢なき時代にあって、あえて希望し夢みようとするべきです。あえて創造的な少数者としてこの国において警告を与えるような夢を見る、希望を語る課題が、イエス・キリストの神の側から与えられているのだということを確認しておきたいと思います。教会にはキリストを宣べ伝えるという尊くも厳しい使命が与えられています。キリストを信じるとは、あえて希望し、あえて夢みる生き方をイエス・キリストにあって選び取っていく自由に招かれているということです。
 ヨセフに与えられた夢みる力、夢を解釈する力を現代的に解釈していくならば、悲惨な、この現代という時代にあって、あらゆる知恵を絞って夢み、希望していくことです。ある意味イエス・キリストがあの悲惨な状況にあって「野の花、空の鳥」を指差して語られた清廉さに生きることが赦されているのが、わたしたちの教会なのだからです。安心と大丈夫だという言葉の支えのもとで新しい勇気ある一歩を踏み出すことへと促されています。さらには前もって復活のキリストが待っていてくださるという信仰が前提されているのです。このようにして、わたしたちはこの世に向かって、それぞれに与えられた現場に向かって未来を生きる信仰に生かされている存在なのだと信じることができるのです。

« 創世記 37章12~36節 「神は存在しないのか」 | トップページ | イザヤ書11章6~9節、マタイ19章13~15節 「子どもこそ導き手」 »

創世記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 創世記 41章1~16節 「未来を拓く信仰」:

« 創世記 37章12~36節 「神は存在しないのか」 | トップページ | イザヤ書11章6~9節、マタイ19章13~15節 「子どもこそ導き手」 »

無料ブログはココログ