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2013年1月 6日 (日)

創世記 37章12~36節 「神は存在しないのか」

 今日の物語は、夢みる人でもありヤコブから溺愛されていたヨセフが兄たちの妬みによって殺されかかり、結局はエジプトに売られてゆく文脈で語られていきます。
 兄たちはヨセフがいなくなったことを取り繕うために、特別に仕立てられた彼の長い衣に殺した羊の血を塗りたくることで、猛獣に襲われてしまったことを偽装してヤコブに報告します。すると、「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」(33-35節)。
 このヤコブの態度に注目しましょう。ヤコブの父としての愛は、その子どもがどんなであったとしても「心に留める」方向をもっています。それは、見た夢を自慢げに語るヨセフをたしなめながらもヤコブの立った在り方です。その思いが、ヨセフが死んでしまったと思ったときに「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」という言葉に反応が表されています。
 創世記37章を神は存在するのか、という観点のもと読むと、一見無慈悲にも神は存在しない物語に読むことができます。しかし、そうではありません。実は神が隠れて働く物語であることが分かってきます。神が存在しないかに思える物語のただ中にこそ、神が存在するという逆説を読み取ることができます。陰府に共に下って行きたいとヤコブが願うのは神に顧みられているが故の態度ではないかと思います。神が族長を我が子のようにして慈しんだ歴史に巻き込まれているヤコブの実感が、わが子に抱く感情に表明されているのです。それが聖書の証言する神の愛の働きの方向です。
 ユダヤ・キリスト教の伝統では神は「父」として捉えられていますが、その「父なる神」の愛の方向性というものが共鳴している新約聖書の記事がルカによる福音書15章11-32節の「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる物語です。この物語で描かれる父の姿、ただただ無力なまま弟息子の帰りを待ち続ける、その弟がどのような悲惨な状況におかれたとしても絶えず待ち続けるしかない、傍から見れば愚かな、情けない、いわゆる「ダメ親父」の姿があります。だけれども、そこにこそ無力な神における全能が示されているのです。
 同じようにヤコブの「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」という言葉は無力な父の姿を現していますが、「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」(ルカ15:32)という事柄が、隠された神の存在が確かな歴史として介入されているという信仰へと、わたしたちを導き入れようと促さられているのです。

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