イザヤ書11章6~9節、マタイ19章13~15節 「子どもこそ導き手」
私は上大岡教会の皆様にご協力いただいている「平和のきずな献金」に、呼びかけ側として20年間携わり、多くの子どもたちに出会ってきました。タイの山岳地帯で助け合って暮らしている貧しい少数民族の子どもたち。学校に通えないので、日曜学校で文字を学んでいたカンボジアの村の子どもたち。麻薬や犯罪の危険にさらされながら、懸命に生きるインドのストリート・チルドレン。イエス様に祈っていただくために連れてこられたのは、こうした社会の底辺に追いやられた子どもたちではなかったでしょうか。そして、子どもたちを連れてきた人々とは、必ずしも親ではなく、善意の村人たちだったのでは?
イエス様の時代、ユダヤでは貧富の差が拡大し、餓死する者が続出したそうです。従って、親を失って路上をさまよう子どもたちが大勢いても不思議ではありません。弟子達は子どもたちがあんまり汚いので追い払おうとしたのでしょう。しかし、イエス様は言われます。「子どもたちを来させなさい。天の国はこのような者達のものである」。神さまはこの子どもたちのように、社会の底辺に追いやられた寄る辺のない者達を愛されるというのです。
旧約の預言者イザヤは、強い者が弱い者を踏みつけにせず、むしろ弱い者が大切にされる新しい世界のイメージを11章でビジュアルに示しています。注目したいのは、イザヤがそのような世界を先導するのは強いリーダー、大人のリーダーではなく、弱くて頼りない小さな子どもだと言っていることです。わかる気がします。この子どもたちを路上で死なせてはならない。この子どもたちを飢えさせてはならない。大人たちは、困難な状況を必死で生き抜こうとする子どもたちの姿に促されて、共生社会への道をあきらめないで進んでいくことができるからです。
今、日本でも貧富の差が広がっています。昨年5月、ユニセフは日本では6人に一人の子どもが相対的貧困に直面していると発表しました。強い者が優遇されて当たり前という弱肉強食の社会を、わたしたちはどのように変えていくことができるでしょうか。神さまはことのほか、小さな者を愛される。そのことを覚えて歩んでいきたいと思います。(大嶋果織牧師 NCC教育部総主事)
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