創世記 37章1~11節 「心に留めて」
ヨセフの見た兄弟たちの束が自分の束に向かってひれ伏した夢、父と母を象徴する太陽と月、兄弟を象徴する星がひれ伏したという夢。これは3~4節にあるように「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」という、甘やかされ依怙贔屓されることで仕事をせず、自己万能感に浸る傲慢な若者の姿です。意識の水準だけではなくて無意識の水準でもそうだったということです。
12節以降で兄たちの妬みや怒りによって穴に放り込まれ、やがてはエジプトに売られてしまうことになっていきます。そこから、ヨセフは様々な試練の中、成長していくのです。それは神が共にいるという事実に支えられてのことです。
11節で父ヤコブは「心に留めた」とあります。このことはヨセフがどのような人間であったとしても、その将来というものを神の導きに委ねていこうとする決意の表れです。ただ、それがあまりにも人間的なものであったことは否めないのですが、ヤコブがヨセフのことを「心に留めた」というのは、これまでの族長物語、アブラハム、イサク、ヤコブの物語において、絶えず神の側から心に留められたという歴史をヤコブが経験していることに依ります。神がヤコブとその子孫たちを心に留めることを受け入れることにおいてヨセフを受け入れているということです。なので、このヨセフという人がその時点においてすぐれていたり、優秀であったりということではありません。
物語の中心は神が共にいることによって導かれ、変えられていくヨセフの成長物語なのです。かつて見た夢の中味が変質していくのです。自意識過剰な自己万能感に浸っていた若者が様々な経験の中で自己相対化できていくのです。神に顧みられているヤコブの「このことを心に留めた」という見守りは、神による見守りによって支えられている事実に委ねていくこと。神の守りの中にある安堵感におかれている限りにおいて成長していくことが赦されていく、という物語なのです。これが37章から50章に続くヨセフ物語です。様々なドラマの背後には絶えず神が存在し、導くのです。物語が語られる中でヨセフの物語から神の物語に向かって純化していくのです。11節でヤコブが「心に留めた」という時点では、それが良いことなのか悪いことなのか分からないのですが、それを委ねていくことにおいて福と転じていく、その可能性が神の導きのもとにあるという旧約聖書の理解があります。
わたしたちにも、今分からないことはたくさんあります。判断に悩むことはあります。しかし、神の導きに委ねていくならば、やがてわかる日がやってくるに違いない、ここに望みを繋ぎながら古き年を終えたいと願っています。
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