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2012年12月

2012年12月30日 (日)

創世記 37章1~11節 「心に留めて」

 ヨセフの見た兄弟たちの束が自分の束に向かってひれ伏した夢、父と母を象徴する太陽と月、兄弟を象徴する星がひれ伏したという夢。これは3~4節にあるように「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」という、甘やかされ依怙贔屓されることで仕事をせず、自己万能感に浸る傲慢な若者の姿です。意識の水準だけではなくて無意識の水準でもそうだったということです。
 12節以降で兄たちの妬みや怒りによって穴に放り込まれ、やがてはエジプトに売られてしまうことになっていきます。そこから、ヨセフは様々な試練の中、成長していくのです。それは神が共にいるという事実に支えられてのことです。
 11節で父ヤコブは「心に留めた」とあります。このことはヨセフがどのような人間であったとしても、その将来というものを神の導きに委ねていこうとする決意の表れです。ただ、それがあまりにも人間的なものであったことは否めないのですが、ヤコブがヨセフのことを「心に留めた」というのは、これまでの族長物語、アブラハム、イサク、ヤコブの物語において、絶えず神の側から心に留められたという歴史をヤコブが経験していることに依ります。神がヤコブとその子孫たちを心に留めることを受け入れることにおいてヨセフを受け入れているということです。なので、このヨセフという人がその時点においてすぐれていたり、優秀であったりということではありません。
 物語の中心は神が共にいることによって導かれ、変えられていくヨセフの成長物語なのです。かつて見た夢の中味が変質していくのです。自意識過剰な自己万能感に浸っていた若者が様々な経験の中で自己相対化できていくのです。神に顧みられているヤコブの「このことを心に留めた」という見守りは、神による見守りによって支えられている事実に委ねていくこと。神の守りの中にある安堵感におかれている限りにおいて成長していくことが赦されていく、という物語なのです。これが37章から50章に続くヨセフ物語です。様々なドラマの背後には絶えず神が存在し、導くのです。物語が語られる中でヨセフの物語から神の物語に向かって純化していくのです。11節でヤコブが「心に留めた」という時点では、それが良いことなのか悪いことなのか分からないのですが、それを委ねていくことにおいて福と転じていく、その可能性が神の導きのもとにあるという旧約聖書の理解があります。
 わたしたちにも、今分からないことはたくさんあります。判断に悩むことはあります。しかし、神の導きに委ねていくならば、やがてわかる日がやってくるに違いない、ここに望みを繋ぎながら古き年を終えたいと願っています。

2012年12月24日 (月)

ルカによる福音書 2章8~20節 「歌」

 羊飼いたちは荒れ野という物理的な孤独だけではなく、軽蔑され、差別されて社会的な孤独を強いられていました。しかし、この孤独に佇むところにこそ、幼子イエスに出会うことができるという天使の歌声が聴かれるのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と。
 羊飼いたちはベツレヘムに向かい、マリアとヨセフ、飼い葉桶の幼子を探し当てます。この出会いによって、羊飼いたちは人々の前に出ていきます。人々に告げるためにです。人々が不思議がるのは無理もありません。信用されないとされる羊飼いたちに救い主の登場が知らされたのですから。羊飼いたちは、飼い葉桶の幼子との出会いによって、「人々」に代表される社会との関係を新しく切り開くために、自ら歩み始めたのではなかったでしょうか。さらに彼らは「帰って行った」とあります。再び荒れ野の孤独に戻ったというのですが、かつて負わされていた、糸が絡みついたような息苦しさ、これらがほぐされたのです。この社会的な孤独のほぐされた佇まいを「神をあがめ、賛美しながら」と呼ぶのです。
 「神をあがめ、賛美しながら」とは、ただ単に神が素晴らしいとの告白ではありません。自分たち自身の言葉に誇りをもち、自分らしい生き方を肯定的に捉えることによって、あるがままの姿で自信を失うことなく堂々と他者に向かい合える存在に変えられていくことです。自分が自分であることを認めると同時に他者との関係を新しく築き始めていくことへの促しでもあります。自分たち自身の言葉、それはよそ行きの着飾った言葉ではありません。生活に根差した言葉です。何の飾りもない生の言葉です。しばしば、わたしたちは自分の言葉を綺麗に飾ろうとして本来の自分の言葉を失ってしまうことがあります。人は与えられた出自や社会層によって使われる言葉に違いがあります。しかし、それら一切があるがままで肯定されているのです。
 羊飼いたちの孤独がほぐされたのは、飼い葉桶の幼子を見たからです。飼い葉桶に寝かされなければならなかったのは、幼子イエスのための余地がこの世界になかったということです。いわば、イエスは「余計者」として生まれたということです。また、この幼子がいずれ迎える十字架による死刑は、社会が「余計者」と判断したことです。羊飼いたちは幼子に、飼い葉桶から十字架の道行きに向かうところの、共に孤独を負うキリストを見たのです。「余計者」など本当は誰一人いないのだと。社会が「余計者」を作り出し、判断するその基準は、イエスの登場により解体する。これが、クリスマスの意味です。さらに、この出来事に基づいて「御心に適う人」への招きでもあります。強いられた孤独と向き合う人々に共なろうとする教会は、この羊飼いたちの応答的感謝を今のこととして共に歌声を合わせることがクリスマスの祝い方なのです。

2012年12月 9日 (日)

マタイによる福音書 1章18~25節 「共にいる神」

 神の思いによって遣わされる男の子は、「その名はインマヌエルと呼ばれる」。その名前、インマヌエルの意味するところは「神は我々と共におられる」ことです。人の名前には、それぞれ意味が与えられています。わたしたちの名前も、それぞれつけてくれた人の思いのこもった意味をもっています。イエスという言葉の意味を辿っていくと、「救う者。救いに関わる者」ということになるのです。
 人が、悩み苦しみ、あがき苦しむところ、病に襲われている場所、これら人が生きていく上での困難を、簡潔に表わす言葉があるとすれば、孤独だろうと思います。自分と他者とのつながりが不可能であると考えたり、不確かなものとして感じられ、ひとりぼっち感、無力感、生きていく価値がないなどと追い詰められていく場所。多かれ少なかれ、わたしたちは、この孤独感に苦しみます。孤独感に常につきまとわれ、辛い日々を送っている人もいるでしょう。しかし、ここにいる、わたしたちに向かって、主イエスは歩み続けて下さっているのです。その結果、主イエスは十字架刑によって殺されますが、その死にさえ打ち勝ってくださったのです。復活における死に対する勝利は、「神は我々と共におられる」ことなのです。イエスという「神は救う」方をマタイは証言し続けているのです。
 マタイによる福音書を、初めから終わりまで読み続けていくときに、わたしたちに訴えかけてくるのは、主イエスの復活の力によって、人は孤独ではなくされたという事実です。
 主イエスが共にいてくださること、ここから、わたしたちは孤独からほどかれていきます。そして、さらには他者に向かっていく道へと導かれていくのです。そして、また、さらには、この道の前方には、自己相対化していくあり方が備えられています。この自己相対化というのは、自分のあり方の間違いに気づかされることによって、生き方の修正の迫りを受けることです。人間は、いつも自分を中心にして、いわば、自分が神に成り変わろうとする誘惑から決して自由ではありません。自分のことを、神の名を用いてでも正当化してしまう、愚かで弱い存在なのです。しかし、降誕の主イエスが共にいてくださることによってほどかれた孤独からの自由は、他者とのつながりにおいて、自分のあり方を絶えず修正していく可能性に拓かれていくのです。
 聖書の証言する共にいてくださろうとする神の想いが、主イエス・キリストの誕生によってなされていることが知らされています。この約束はわたしたちを孤独からほどくものです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との言葉は、真実の言葉です。この言葉によって、わたしたちはいつも守られています。この主イエスの守りに信頼しつつ、歩んでいく道は、すでにここにあるのです。

2012年12月 2日 (日)

ルカによる福音書 1章26~38節 「言葉が成る時」

 「マリヤ、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と天使が語ります。神の想いがイエスという方において成就するのだと。これは、民族的なユダヤ教という状況の中で、衝撃的な宣言です。宗教的な結束を強めようとするときには、その基準からはじかれる人が必要になります。団結するためには排除のエネルギーが必要なのです。「敵」が必要なのです。
 ユダヤ教はその「敵」を自らの民族の中に設定しました。それが「罪人」とか「徴税人」と呼ばれる人たちです。マリヤの場合は姦淫の罪があてはまります。ところが、イエスが産まれてくる道筋というのは、イエスが産まれてくる母さえも、はじかれた側におかれる弱々しい立場におかれた少女となるわけです。その少女がお告げを聞いて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えたとあります。このマリヤの言葉は、当時の社会状況において、自分の中に神の想い、その歴史が貫かれていくことへの責任を負っていく激しい決意なのです。
 確かに天使のお告げの中では、一見イスラエル民族の指導者ないしは王をイメージしているかのようですが逆説として読むべきです。4章にある系図によればダビデの系統はマリヤではなくてヨセフだからです。聖霊によってマリヤが身ごもったという事実は、ダビデの血筋を相対化ないしは無化しているのです。いわゆるユダヤ民族という閉じられた関係性の中における救い主ということではなくて、むしろ閉じられる概念によってはじかれる側の人たちの友となる救い主だとの表明です。そのあり方に対してマリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えるのです。つまり、当時の世界観の中にあって民族主義というものを相対化し無視しながら、より弱くされた者たち、より力小さくされて、はじかれている者たちに連帯するあり方を「お言葉どおり、この身に成りますように」と受けていく、神の想いを我が身に引き受けていくマリヤの信仰告白がここに現れているのです。だからこそマリヤは46節から55節で賛歌を歌います。主イエス・キリストが神の言葉のとおりの生き方であると。
 クリスマス。イエスがどのような方として、またどのような方向をもって神の国の救い主として飼い葉桶に来てくださるのか、そのことをマリヤが絶えず思いめぐらしたように、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」というこの言葉を、わたしたち一人ひとりの心に刻みながら主イエスの降誕に向かって歩んでいく日々でありたいと願っています。神の言葉は成る、という約束が確かであることを信じつつ。

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