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2012年12月24日 (月)

ルカによる福音書 2章8~20節 「歌」

 羊飼いたちは荒れ野という物理的な孤独だけではなく、軽蔑され、差別されて社会的な孤独を強いられていました。しかし、この孤独に佇むところにこそ、幼子イエスに出会うことができるという天使の歌声が聴かれるのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と。
 羊飼いたちはベツレヘムに向かい、マリアとヨセフ、飼い葉桶の幼子を探し当てます。この出会いによって、羊飼いたちは人々の前に出ていきます。人々に告げるためにです。人々が不思議がるのは無理もありません。信用されないとされる羊飼いたちに救い主の登場が知らされたのですから。羊飼いたちは、飼い葉桶の幼子との出会いによって、「人々」に代表される社会との関係を新しく切り開くために、自ら歩み始めたのではなかったでしょうか。さらに彼らは「帰って行った」とあります。再び荒れ野の孤独に戻ったというのですが、かつて負わされていた、糸が絡みついたような息苦しさ、これらがほぐされたのです。この社会的な孤独のほぐされた佇まいを「神をあがめ、賛美しながら」と呼ぶのです。
 「神をあがめ、賛美しながら」とは、ただ単に神が素晴らしいとの告白ではありません。自分たち自身の言葉に誇りをもち、自分らしい生き方を肯定的に捉えることによって、あるがままの姿で自信を失うことなく堂々と他者に向かい合える存在に変えられていくことです。自分が自分であることを認めると同時に他者との関係を新しく築き始めていくことへの促しでもあります。自分たち自身の言葉、それはよそ行きの着飾った言葉ではありません。生活に根差した言葉です。何の飾りもない生の言葉です。しばしば、わたしたちは自分の言葉を綺麗に飾ろうとして本来の自分の言葉を失ってしまうことがあります。人は与えられた出自や社会層によって使われる言葉に違いがあります。しかし、それら一切があるがままで肯定されているのです。
 羊飼いたちの孤独がほぐされたのは、飼い葉桶の幼子を見たからです。飼い葉桶に寝かされなければならなかったのは、幼子イエスのための余地がこの世界になかったということです。いわば、イエスは「余計者」として生まれたということです。また、この幼子がいずれ迎える十字架による死刑は、社会が「余計者」と判断したことです。羊飼いたちは幼子に、飼い葉桶から十字架の道行きに向かうところの、共に孤独を負うキリストを見たのです。「余計者」など本当は誰一人いないのだと。社会が「余計者」を作り出し、判断するその基準は、イエスの登場により解体する。これが、クリスマスの意味です。さらに、この出来事に基づいて「御心に適う人」への招きでもあります。強いられた孤独と向き合う人々に共なろうとする教会は、この羊飼いたちの応答的感謝を今のこととして共に歌声を合わせることがクリスマスの祝い方なのです。

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