ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節 「キリストと共に生きる」
イエス・キリストの復活の出来事から事柄はすべて理解されなければなりません。たとえ、それが死という圧倒的に支配的な力が猛威を振るっているように見えてもです。死というものが最終的な死ではないからです。この点についてパウロはコリントの信徒への手紙一で次のように述べています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15:54-55)と。
死を「お前」と呼びかけながらパウロが語ることができたのは勝利者としてのイエスが念頭にあるのは当然です。それでは、復活に至るイエスの姿はどうだったのでしょうか。
逮捕を直前にしてゲッセマネで祈る姿、あるいは十字架上で絶叫の末に果てる姿、を思い浮かべてみましょう。そこにあるのは、生前のイエスの今共にいる一人ひとりとの関係が断たれてしまう死という圧倒的な出来事に対する、心の底からの悲しみの叫びではないでしょうか。このイエスの姿には、実は今は神のもとに抱かれている方々が、この世から取り去られてしまったときの、わたしたちの悲嘆が先取られているのではないでしょうか。イエスの叫びがあるからこそ、わたしたちは愛する者の死の出来事に対して真っ直ぐに悲しむ道筋が用意されていることに気づかされていきます。
しかし、イエスは使徒信条にあるように「三日目に死人のうちよりよみがえり」ました。この死に対する勝利の出来事は、今日ここで今故人を偲ぶわたしたちに慰めをもたらします。キリストの復活の出来事は同じく使徒信条にあるように「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とありますから、今生きているわたしたちと神のもとに守られている方々の間をキリストは「審く」仕方で守り抜いてくださっていると理解することが求められているのではないでしょうか。
故人お一人おひとりと、この世において再会することは不可能です。しかし、「三日目に死人のうちよりよみがえり」という出来事は、此岸と彼岸とをとり結ぶものです。いずれの場にあってもキリストと共にある<いのち>に包まれているからです。
こうして、わたしたちは、この世に残された者としての責任において故人を偲び、その思い出を復活の出来事から見直していくならば、再会への約束がより確かなものとなります。どちらの岸辺にいる場合にも、同じようにキリストの復活に与るべく、その関係が守られているが故に、キリストが豊かな<いのち>を湛え生きていること、ここに希望を繋いでいくならば、死という断絶の出来事が希望において与えられる慰めに包まれる、平安への道が用意されているに違いありません。
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