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2012年11月

2012年11月25日 (日)

マルコによる福音書4章26~29節 「豊かな実りは」

 生前のイエスは庶民でした。なので、ガリラヤ湖での漁師たちの暮らしぶりや牧畜に携わる人たちの苦労や、あるいは農民の日ごとの働きについて良く知っていました。喩え話やイエスの言葉には、慈しみの言葉が端々に感じられます。今日の箇所は「夜昼寝起きしているうちに種は芽を出して成長するが」とあり、「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」となっています。農民が畑をまず起こして肥料を入れて種を蒔いて水をあげて雑草を取り丁寧に手入れして、育てていくという暮らしをイエスは分かっていた。分かっていたにもかかわらず、あえて農民の仕事が全く関係ないと、ただ人は「夜昼寝起きしている」だけで勝手に育つのだという喩え話になっています。
 これは神の国の喩え話ですから、豊かな実りというものは人間がいくら朝から晩まで丹精込めて働いたとしても、究極的には、そのいのちある種を豊かな実りに導くのは、あくまでも神の働きなのだということへの信頼が神の国の喩えとして語られているということです。つまり神の国の迫りという事柄において人は無力であるけれども、実りは豊かなのだという、イエスの楽観性の表れとして読むことができます。
 神の国が近づいてきているのだから、人の業には依らず、神の一方的な働きによって豊かな実りがもたらせられる、神がすべて守り導いてくださるのだ、という喩え話なのです。やがて神の国は確実にくる、その迫りの中でイエスの実感というのは安心であり、率直な信頼というものがあるのです。豊かさの輝きに照らされてある、この世における楽観性というものをイエスはもっていたということです。
 今日は収穫感謝礼拝です。イエス・キリストの姿を思いつつ、せめてわたしたちの日用の糧から米を、神の国の近づきにおける分ちあいの象徴としてささげて、神への応答として守りたいと思います。
 改訂版こどもさんびかの102番(作詞作曲:川上盾牧師)には、収穫感謝のエッセンスが詰まっています。一番で神の楽天的な守りが語られています。神がすべて守ってくれると。二番でお百姓さんが神の恵みの中で働いて大事に育てたと歌います。それで開けてくる世界が何かというと、分ちあいましょう、という言葉なのです。三番はキム・ジハの詩の世界観が前提とされています。「飯は天なのです/空を一人で独占できないように/飯は分ちあって食べるもの/飯は天なのです/空の星をみんなが見るように/飯はみんなが一緒に食べるもの/飯を口にすることは 天を体の中に迎え入れること/飯は天なのです/ああ 飯は みんなが分ちあって食べるもの」このさんびかで描いている世界というのが、イエスが考えたところの神の国から照らし出された、あるべき教会の使命、分ちあって生きていく在り方が示されています。そこにこそ神の国のお近づきにおける教会の応答的な責任的な態度決定が求められているのです。

2012年11月11日 (日)

マルコによる福音書 10章13~16節 「集まれ、子どもたち」

 主イエスが子どもを愛され、そして祝福してくださったという話です。主イエスに触ってもらいたいと、母親や姉に連れられた小さな子どもたちがやってきました。これは主イエスが触ると心身の病が癒され、心が軽くなるという噂を大勢の人たちが聞いていたからでしょう。もしかしたら、ここに連れて来られた子どもたちは病気とか、あるいは、辛い思いをしていたり悩みのあった子どもたちかもしれません。その子どもたちのことを心配した母親や姉とかが、イエスって人がいるよ、あの人のところへ連れて行って触ってもらえば、きっと元気になるんじゃないかと思って連れてきたのです。
 けれども邪魔をする人たちがいました。主イエスの弟子たちです。何故なのでしょう。2千年前のユダヤでは、子どもと女の人は人数に数えられない、一人前ではないと考えられていました。だから、主イエスの話はとても難しい、男の大人にならないと分からないから来たって無駄だよという風に多分弟子たちは思ったので、来なくていい、近づいてはいけない、と言いました。
 ところが、そういう弟子たちのそういう態度を見て主イエスは「これを見て憤り」とあります。主イエは人の命、人の尊厳が踏みにじられる、あるいは軽んじられる時には、激しく怒ります。それで何と言ったかというと「子供たちをわたしのところに来させなさい」。子どもたち集まれ、と。「妨げてはならない」とも。この言葉は、自由にするとか解き放つ、あるいは解放する、そういう意味です。主イエスは子どもたちがそのままで自由にされて解き放たれて、子どもらしく生きることがいいんだ、それが素敵なことなんだ、と考えていたからです。
 そして、そういう解き放たれた子どもたち、今生きていることが嬉しくて素敵だなと思える、そういう子どもたちこそが神さまの国に相応しいのです。それで「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。主イエスの想いがその人の、子ども一人ひとりのところに、心の一番奥底にまで染み渡る、生きていてありがとう、嬉しいよ、あなたは今日生きていて素敵だよ、という気持ちが体中に浸みこむような祈りとか願い、それが祝福なのです。
 子どももおとなも神の子どもなのだから、主イエスの言葉を聞いて、そして、縛られて自由でない、不自由な思いに捕われているところから解き放たれ自由にされた心になっていく、そういう風にして、同じ神の子どもとして招かれているのです。その教えを聞いて、今度は教会から送りだされて、お互いの命を喜んで歩んでいくことができるという約束がここにはあります。

2012年11月 4日 (日)

ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節 「キリストと共に生きる」

 イエス・キリストの復活の出来事から事柄はすべて理解されなければなりません。たとえ、それが死という圧倒的に支配的な力が猛威を振るっているように見えてもです。死というものが最終的な死ではないからです。この点についてパウロはコリントの信徒への手紙一で次のように述べています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(15:54-55)と。
 死を「お前」と呼びかけながらパウロが語ることができたのは勝利者としてのイエスが念頭にあるのは当然です。それでは、復活に至るイエスの姿はどうだったのでしょうか。
 逮捕を直前にしてゲッセマネで祈る姿、あるいは十字架上で絶叫の末に果てる姿、を思い浮かべてみましょう。そこにあるのは、生前のイエスの今共にいる一人ひとりとの関係が断たれてしまう死という圧倒的な出来事に対する、心の底からの悲しみの叫びではないでしょうか。このイエスの姿には、実は今は神のもとに抱かれている方々が、この世から取り去られてしまったときの、わたしたちの悲嘆が先取られているのではないでしょうか。イエスの叫びがあるからこそ、わたしたちは愛する者の死の出来事に対して真っ直ぐに悲しむ道筋が用意されていることに気づかされていきます。
  しかし、イエスは使徒信条にあるように「三日目に死人のうちよりよみがえり」ました。この死に対する勝利の出来事は、今日ここで今故人を偲ぶわたしたちに慰めをもたらします。キリストの復活の出来事は同じく使徒信条にあるように「生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とありますから、今生きているわたしたちと神のもとに守られている方々の間をキリストは「審く」仕方で守り抜いてくださっていると理解することが求められているのではないでしょうか。
 故人お一人おひとりと、この世において再会することは不可能です。しかし、「三日目に死人のうちよりよみがえり」という出来事は、此岸と彼岸とをとり結ぶものです。いずれの場にあってもキリストと共にある<いのち>に包まれているからです。
 こうして、わたしたちは、この世に残された者としての責任において故人を偲び、その思い出を復活の出来事から見直していくならば、再会への約束がより確かなものとなります。どちらの岸辺にいる場合にも、同じようにキリストの復活に与るべく、その関係が守られているが故に、キリストが豊かな<いのち>を湛え生きていること、ここに希望を繋いでいくならば、死という断絶の出来事が希望において与えられる慰めに包まれる、平安への道が用意されているに違いありません。

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