« ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節 「キリストと共に生きる」 | トップページ | マルコによる福音書4章26~29節 「豊かな実りは」 »

2012年11月11日 (日)

マルコによる福音書 10章13~16節 「集まれ、子どもたち」

 主イエスが子どもを愛され、そして祝福してくださったという話です。主イエスに触ってもらいたいと、母親や姉に連れられた小さな子どもたちがやってきました。これは主イエスが触ると心身の病が癒され、心が軽くなるという噂を大勢の人たちが聞いていたからでしょう。もしかしたら、ここに連れて来られた子どもたちは病気とか、あるいは、辛い思いをしていたり悩みのあった子どもたちかもしれません。その子どもたちのことを心配した母親や姉とかが、イエスって人がいるよ、あの人のところへ連れて行って触ってもらえば、きっと元気になるんじゃないかと思って連れてきたのです。
 けれども邪魔をする人たちがいました。主イエスの弟子たちです。何故なのでしょう。2千年前のユダヤでは、子どもと女の人は人数に数えられない、一人前ではないと考えられていました。だから、主イエスの話はとても難しい、男の大人にならないと分からないから来たって無駄だよという風に多分弟子たちは思ったので、来なくていい、近づいてはいけない、と言いました。
 ところが、そういう弟子たちのそういう態度を見て主イエスは「これを見て憤り」とあります。主イエは人の命、人の尊厳が踏みにじられる、あるいは軽んじられる時には、激しく怒ります。それで何と言ったかというと「子供たちをわたしのところに来させなさい」。子どもたち集まれ、と。「妨げてはならない」とも。この言葉は、自由にするとか解き放つ、あるいは解放する、そういう意味です。主イエスは子どもたちがそのままで自由にされて解き放たれて、子どもらしく生きることがいいんだ、それが素敵なことなんだ、と考えていたからです。
 そして、そういう解き放たれた子どもたち、今生きていることが嬉しくて素敵だなと思える、そういう子どもたちこそが神さまの国に相応しいのです。それで「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。主イエスの想いがその人の、子ども一人ひとりのところに、心の一番奥底にまで染み渡る、生きていてありがとう、嬉しいよ、あなたは今日生きていて素敵だよ、という気持ちが体中に浸みこむような祈りとか願い、それが祝福なのです。
 子どももおとなも神の子どもなのだから、主イエスの言葉を聞いて、そして、縛られて自由でない、不自由な思いに捕われているところから解き放たれ自由にされた心になっていく、そういう風にして、同じ神の子どもとして招かれているのです。その教えを聞いて、今度は教会から送りだされて、お互いの命を喜んで歩んでいくことができるという約束がここにはあります。

« ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節 「キリストと共に生きる」 | トップページ | マルコによる福音書4章26~29節 「豊かな実りは」 »

マルコによる福音書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: マルコによる福音書 10章13~16節 「集まれ、子どもたち」:

« ガラテヤの信徒への手紙 2章15~21節 「キリストと共に生きる」 | トップページ | マルコによる福音書4章26~29節 「豊かな実りは」 »

無料ブログはココログ