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2012年10月 7日 (日)

サムエル記上3章1~10節 「祈りとは」

 サムエルは、この歴史において、神に仕える預言者であり祭司として働きました。サムエル記上では、サムエルの活動の根源には祈りがあるのだと表明されています。本来祈りというのは、サムエルの態度にあるように、神の呼びかけをまず聴くことです。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」とあるように。祈りとは、まず神からの呼びかけがあることに気づかされて、聴いていくことから始まります。ここに祈りの本質があるのです。聴くことなしに応答としての祈りはあり得ません。
 祈りというのは内的な、あるいは精神的な事柄に留まりません。かつてチェコのフロマートカという神学者は「フィールドはこの世界である」と語りました。つまり、教会の活動は世界なのだ、そこにこそ働きの場があるのだ、と。祈る生き方というのは、「地の塩、世の光」として「フィールドはこの世界である」ということを心に刻むことです。この世に対する責任的な関わりへと招かれていることを知ることであり、さらにはそこに積極的に関わらずを得ないことに気づいていくことです。
 どんなに小さな働きであったとしても、その人に与えられた使命があるということなのです。キリスト者が「地の塩、世の光」ないしは「平和を実現する者」であると言われる時に、その根底になければならないのは、神がすでに語っておられることへの応答として聴くこととしての祈りです。この信頼においてこそ、その使命が与えられ、招かれているということなのです。
 サムエルは「サムエルよ」と呼びかけられて真っ直ぐに「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と応答する立場を貫きました。それ故にサムエルはその祈りとしての生涯を「フィールドはこの世界である」という生き方で貫くことを選ばざるを得なかったのです。
 しかも、その祈りに生きる生き方というのは必ずしも安易な道を取ることとは限りません。なぜならば、今日の3章11節以降では必ずしも心地よい言葉が語られているわけではないからです。「サムエルよ」と呼びかけられ「どうぞお話しください」との応答の中で語られた内容は、エリの家が没落していくという物語だったからです。サムエルは、その厳しい宣告を師であるエリに伝える役目を与えられ、預言者人生への道が始まるのです。
 聴くことから始まる祈りに生きることは、できることなら避けたいことかもしれません。主イエス・キリストが「できることならこの杯を取りのけてください」と祈った祈りにも相通じるのです。主イエス・キリストが「自分の十字架を負え」と語ったことは重たい言葉であり、わたしたちは本気で受け止めなければならないのです。しかし、それをあえて引き受けていく生き方、あえてより困難な道を選ばざるを得ない道にこそ神の御旨が備えられていることに委ねていく信仰が、サムエルの物語の祈りの本質に他ならないのです。

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