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2012年10月

2012年10月28日 (日)

イザヤ書 43章19節 「子どもたちは生きる」

 今日の聖書の時代は、かつてイスラエルの人たちがエジプトから神によって導き出されて救われたように、今度は囚われているバビロニアから故郷に帰っていくことが必ず起こるという希望が語られています。
 それが「見よ、新しいことをわたしは行う」という神の言葉であって、「今や、それは芽生えている」というのです。さらに「あなたたちはそれを悟らないとか」と促しています。「わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」というのです。人が通ることもできないような荒れ果てた土地に道を造り自由に行き来できるようにし、水が少しもない枯れ果てた砂漠に滔々とした川の流れをもたらすのだというのです。
 これは、希望の欠片さえもなくなってしまっているバビロニアに捕われたユダの人たちに対する、もうすぐ世界が変わって故郷に帰って幸せになれるという約束の言葉です。
 この言葉を、現代に生きるわたしたちはどのように読みとったらいいのでしょうか。世界中に子どもたちは暮らしています。でも、ご承知のように皆が皆平和に暮らしているわけではありません。おとなの起こす戦争や紛争の犠牲になる子どもたちがいます。環境破壊の故の飢餓に苦しむ子どもたちがいます。不平等な社会の中で貧しさに苦しむ子どもたちがいます。国際的な約束では、子どもの労働や子ども兵士は許されていません。しかし現実のこの世界には、そういう子どもがたくさんいるのです。子どもたちの平和に生きる権利を奪う力が働いているのは事実なのです。こういう社会にあって、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。何ができるのでしょうか。
 今日はブラジルの子どもたちのことを覚えています。先程のパネルでは、ブラジルの大都市周辺で暮らしている貧しい地域の子どもたちが、思いっきり遊び、学び、しっかりと食べ、安心して寝ることのできる社会を造り出そうとしている人たちの働きが紹介されていました。
 「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」ということは、社会の中に埋もれてしまいそうな地味で目立たない活動の中に、すでにイエス・キリストの神の働きがあるということです。そして「あなたたちはそれを悟らないのか。」と問われているのです。神の語られる「わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。」出来事は、子どもたちが安心して安全に、心から喜んで生きる社会なのであり、神の言葉を聴く人は祈って、その道に連なっていくように招かれているのです。
 わたしたちは、そのような働きに直接関われるとは限りません。でも、このようなストリートチルドレンになりかねないようなブラジルの子どもたちも、わたしたちも神の子どもとして生きるように招かれていることを心から信じることはできます。ここから、世界中の子どもたちが神に祝福されて喜んで生きる、ことを一緒に祈っていきましょう。

2012年10月14日 (日)

サムエル記上20章35~42節 「友情とは」

 イスラエルの初代の王サウルはダビデの人気が高まるにつれ、殺意を抱き始めます。サウルの息子ヨナタンは心を痛めますが、サウルのダビデを殺す決意は非常に堅いと判断すると隠れ潜んでいたダビデにその旨を告げます。二人で対面して抱き合って、何て理不尽な事態なんだと泣きます。ヨナタンは自分たちの友情はサウルの殺意にも負けないのだと、確かなものなのだということを確認して無事を祈りながらダビデが逃げていくことを促すという記事となっています。「ヨナタンは言った。『安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。』」(20:42)と。
 たとえ場所が離れていたとしてもヨナタンとダビデの間の友情は神の前にあって確かなものなのだ、だからお互いのいのちが、神によって結ばれている友情は尊いという確認をして、お互いがお互いの命を慈しみあったという友情物語とされます。
 しかし、サムエル記上下を通してみると、この友情には破れがあるのです。友情の契約を何度もしていますが、お互いに友情に対する疑心暗鬼があるのです。いくら神の名を語りながら熱い友情を美しく語っても、その友情にどこか破れ生じてしまうのです。そういう弱さをもったのが人間の友情の限界であるということを、サムエル記上下におけるダビデとヨナタンの関係を通して読み取ることができるのです。
 わたしたちは、この人間の側の破れがイエス・キリストによって包まれているところに立ちたいと願います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である」という仕方でイエス・キリストは友となってくださったこと。しかも、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という生き方をイエス・キリストは身をもって示してくださいました。しかし、逮捕の場面で弟子たちは一人残らず逃げ去ってしまいます。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と呼びかけられた、にもかかわらずです。イエス・キリストが、自らを捨て去るようにして、あえて逃げ去る者たちの友となることを貫きつつ、よみがえってくださった出来事において、わたしたち人間が持っている友情の破れとか弱さというものが、イエス・キリストの業の中にすでに包み込まれてしまっているがゆえに、新しい友情を育むことが赦されているのです。

2012年10月 7日 (日)

サムエル記上3章1~10節 「祈りとは」

 サムエルは、この歴史において、神に仕える預言者であり祭司として働きました。サムエル記上では、サムエルの活動の根源には祈りがあるのだと表明されています。本来祈りというのは、サムエルの態度にあるように、神の呼びかけをまず聴くことです。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」とあるように。祈りとは、まず神からの呼びかけがあることに気づかされて、聴いていくことから始まります。ここに祈りの本質があるのです。聴くことなしに応答としての祈りはあり得ません。
 祈りというのは内的な、あるいは精神的な事柄に留まりません。かつてチェコのフロマートカという神学者は「フィールドはこの世界である」と語りました。つまり、教会の活動は世界なのだ、そこにこそ働きの場があるのだ、と。祈る生き方というのは、「地の塩、世の光」として「フィールドはこの世界である」ということを心に刻むことです。この世に対する責任的な関わりへと招かれていることを知ることであり、さらにはそこに積極的に関わらずを得ないことに気づいていくことです。
 どんなに小さな働きであったとしても、その人に与えられた使命があるということなのです。キリスト者が「地の塩、世の光」ないしは「平和を実現する者」であると言われる時に、その根底になければならないのは、神がすでに語っておられることへの応答として聴くこととしての祈りです。この信頼においてこそ、その使命が与えられ、招かれているということなのです。
 サムエルは「サムエルよ」と呼びかけられて真っ直ぐに「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と応答する立場を貫きました。それ故にサムエルはその祈りとしての生涯を「フィールドはこの世界である」という生き方で貫くことを選ばざるを得なかったのです。
 しかも、その祈りに生きる生き方というのは必ずしも安易な道を取ることとは限りません。なぜならば、今日の3章11節以降では必ずしも心地よい言葉が語られているわけではないからです。「サムエルよ」と呼びかけられ「どうぞお話しください」との応答の中で語られた内容は、エリの家が没落していくという物語だったからです。サムエルは、その厳しい宣告を師であるエリに伝える役目を与えられ、預言者人生への道が始まるのです。
 聴くことから始まる祈りに生きることは、できることなら避けたいことかもしれません。主イエス・キリストが「できることならこの杯を取りのけてください」と祈った祈りにも相通じるのです。主イエス・キリストが「自分の十字架を負え」と語ったことは重たい言葉であり、わたしたちは本気で受け止めなければならないのです。しかし、それをあえて引き受けていく生き方、あえてより困難な道を選ばざるを得ない道にこそ神の御旨が備えられていることに委ねていく信仰が、サムエルの物語の祈りの本質に他ならないのです。

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