イザヤ書 43章19節 「子どもたちは生きる」
今日の聖書の時代は、かつてイスラエルの人たちがエジプトから神によって導き出されて救われたように、今度は囚われているバビロニアから故郷に帰っていくことが必ず起こるという希望が語られています。
それが「見よ、新しいことをわたしは行う」という神の言葉であって、「今や、それは芽生えている」というのです。さらに「あなたたちはそれを悟らないとか」と促しています。「わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる」というのです。人が通ることもできないような荒れ果てた土地に道を造り自由に行き来できるようにし、水が少しもない枯れ果てた砂漠に滔々とした川の流れをもたらすのだというのです。
これは、希望の欠片さえもなくなってしまっているバビロニアに捕われたユダの人たちに対する、もうすぐ世界が変わって故郷に帰って幸せになれるという約束の言葉です。
この言葉を、現代に生きるわたしたちはどのように読みとったらいいのでしょうか。世界中に子どもたちは暮らしています。でも、ご承知のように皆が皆平和に暮らしているわけではありません。おとなの起こす戦争や紛争の犠牲になる子どもたちがいます。環境破壊の故の飢餓に苦しむ子どもたちがいます。不平等な社会の中で貧しさに苦しむ子どもたちがいます。国際的な約束では、子どもの労働や子ども兵士は許されていません。しかし現実のこの世界には、そういう子どもがたくさんいるのです。子どもたちの平和に生きる権利を奪う力が働いているのは事実なのです。こういう社会にあって、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。何ができるのでしょうか。
今日はブラジルの子どもたちのことを覚えています。先程のパネルでは、ブラジルの大都市周辺で暮らしている貧しい地域の子どもたちが、思いっきり遊び、学び、しっかりと食べ、安心して寝ることのできる社会を造り出そうとしている人たちの働きが紹介されていました。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」ということは、社会の中に埋もれてしまいそうな地味で目立たない活動の中に、すでにイエス・キリストの神の働きがあるということです。そして「あなたたちはそれを悟らないのか。」と問われているのです。神の語られる「わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。」出来事は、子どもたちが安心して安全に、心から喜んで生きる社会なのであり、神の言葉を聴く人は祈って、その道に連なっていくように招かれているのです。
わたしたちは、そのような働きに直接関われるとは限りません。でも、このようなストリートチルドレンになりかねないようなブラジルの子どもたちも、わたしたちも神の子どもとして生きるように招かれていることを心から信じることはできます。ここから、世界中の子どもたちが神に祝福されて喜んで生きる、ことを一緒に祈っていきましょう。
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