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2012年10月14日 (日)

サムエル記上20章35~42節 「友情とは」

 イスラエルの初代の王サウルはダビデの人気が高まるにつれ、殺意を抱き始めます。サウルの息子ヨナタンは心を痛めますが、サウルのダビデを殺す決意は非常に堅いと判断すると隠れ潜んでいたダビデにその旨を告げます。二人で対面して抱き合って、何て理不尽な事態なんだと泣きます。ヨナタンは自分たちの友情はサウルの殺意にも負けないのだと、確かなものなのだということを確認して無事を祈りながらダビデが逃げていくことを促すという記事となっています。「ヨナタンは言った。『安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。』」(20:42)と。
 たとえ場所が離れていたとしてもヨナタンとダビデの間の友情は神の前にあって確かなものなのだ、だからお互いのいのちが、神によって結ばれている友情は尊いという確認をして、お互いがお互いの命を慈しみあったという友情物語とされます。
 しかし、サムエル記上下を通してみると、この友情には破れがあるのです。友情の契約を何度もしていますが、お互いに友情に対する疑心暗鬼があるのです。いくら神の名を語りながら熱い友情を美しく語っても、その友情にどこか破れ生じてしまうのです。そういう弱さをもったのが人間の友情の限界であるということを、サムエル記上下におけるダビデとヨナタンの関係を通して読み取ることができるのです。
 わたしたちは、この人間の側の破れがイエス・キリストによって包まれているところに立ちたいと願います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である」という仕方でイエス・キリストは友となってくださったこと。しかも、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」という生き方をイエス・キリストは身をもって示してくださいました。しかし、逮捕の場面で弟子たちは一人残らず逃げ去ってしまいます。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と呼びかけられた、にもかかわらずです。イエス・キリストが、自らを捨て去るようにして、あえて逃げ去る者たちの友となることを貫きつつ、よみがえってくださった出来事において、わたしたち人間が持っている友情の破れとか弱さというものが、イエス・キリストの業の中にすでに包み込まれてしまっているがゆえに、新しい友情を育むことが赦されているのです。

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